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文章の世界でさまよう書き手を導く、フクロウの一声

いったい何者なのだろう、と思っていた。

淡々としていてクールな印象。透明感の中に温かさが滲み出る文章。さらに説得力も抜群。その個性は唯一無二だ。みんなに愛されているのはきっとお人柄がいいから。noteの中の誰にも会ったことない私は、いつも発信そのものやオフ会・イベントのレポートを読んで人物像を思い描いている。

これまでもずっと拝読していたから好きな記事はたくさんあるのだけれど、こちらを読んだときに「心底惚れた」と思った。

いま大変お忙しいはず。フクロウのボス・仲さん。

「あなたのnote読みます」企画はもちろん募集当初から存じ上げていた。けれど、手を挙げられない理由が二つあった。

ひとつめは「これを読んでもらいたい」という記事が思い当たらなかったこと
ふたつめは「こうしなければならない」バイアスがかかるのが怖かったこと
(みっつめに、私なんかが…と思っていたというのもある)

特にひとつめの理由は大きかった。
というか、私はこの企画がきっかけで文章における「自分の色」ってなんだろうとますます考えるようになった。仲さんに読んでもらいたい記事がないってことは、これが私の文章です!とクリアに言えないこととイコールだった。
お気に入りもちゃんとある。ここ最近でいえば、推しアーティストの記事おばあちゃんの記事は我ながらがんばって書いたし、希望観測的に言えば "私らしさ" もあると思う。

ただ、どうにも「まばら」なような気がした。

下書きがどんどん溜まっていた。その中には98%ぐらいまで完成しているのに公開していないものもあった。あと2%の完成度を求めているからじゃなくて、本当にこれが書きたかった?って思うとボタンを押すのを躊躇ってしまう。
パズルみたいに最後のピースが見つからないこともあれば、料理みたいに不味くはないが今ひとつ物足りないこともある。
完成した記事はどこか自分が思うものと違っていて、でもその理由がわからなかった。

考えすぎでしょ。
そうね、そうなのだと思う。
しのごの言わずに公開すれば。
どうしよう、だって、etc。

別に伝えたいことなんてなくてもいいんじゃない。コンセプト?メッセージ?知らん、知らん。
そう思いながら頭や心に浮かび上がる情景や気持ちを言葉にしていたら、故郷の話になっていた。

「あ、近い」と思えた。
私が書きたかったものに、少しだけ。ひょいと公開したら「なんかうまく言えないけど好き」という類の声をいただいたりして、うん私も好きだと思って、でもその理由はやっぱりわからなかった。

仲さんにもTwitterでシェアしていただいた。いわゆるシェア文はなかったのだけれど、何か引っかかるものがあってくれたのだと思う。そうだ、せっかく思い描いていた印象に近い文章が書けた気がするので、これをあの企画で改めて読んでもらうのはどうか。何かヒントがいただけるかもしれない。そう考えて、思い切ってDMを送った(めっちゃ緊張した)。

仲さんのフィードバックは、とても優しい眼差しに満ち溢れたものだった。

この文章の素晴らしいところは、複数の対比が行き来するところです。
まずは夢現(ゆめうつつ)、そして日本とアメリカ、現在と過去、本音と建て前、それらが複雑に絡み合って成り立っています。

夢現(ゆめうつつ)。
本音と建て前。

日本とアメリカ、現在と過去との対比は何となく意識していた。でもそれ以外はご指摘いただくまで気付かなかった。

一番どきっとしたのは「本音と建て前」という部分。文章の中で、気持ちや発言に対する「純度100%」という表現が出てくるので、おそらくそのことを仰っていたのだと思う。

けれど、書いている私自身の中に、本音と建て前どちらも存在しているのを見抜かれたような気がして、びっくりした。

あの記事をいろんな人に読んでもらって、懸念していたのが「すごく親思いの娘のように映らないだろうか」という点だった。
近くにいられなくて申し訳ない思いは嘘じゃない。しかしその一方で、私は何だかんだ自分の人生を優先させているし、好き勝手に生きている。別に親孝行でも何でもない。

そう、つまりはどちらも本当の気持ち。

人間ってそんなものなのだろう。単純明快な感情だけじゃなく、相反する感情がいくつも共存するような。幾多の方向にも矢印が伸びている。
それを一つの言葉や文章にするのは本来とても難しい作業なのだ。そしてとびきり楽しくもある。

ふっと"混沌"という二文字が浮かび上がった。

そう、いつも混沌としている。グラデーションのようなときもあれば、ぐちゃぐちゃに色が重なっているときもある。

自問すると必ず自身の中に矛盾や嫌な部分を発見します。
それを書くといいと思います。正当化するのではなくありのままの矛盾や弱さを目の前の文章にうつすのです。
すると読者はどうしょうもない矛盾の中に正解を見つけることになります。

これも仲さんからいただいた言葉。私には文章で格好つける悪い癖がある。ここしばらくずっと「書きたいもの」を見失っていた。それが溜まっていく下書きに現れていた。もしかしたら、私はたとえ格好悪くても混沌とした気持ちそのものを書きたいのかもしれない、と仲さんとのやり取りを通して気付かせてもらった。

多分それはいわゆる「お金をいただける文章」からは程遠い。いまの私に限って言えば、生身のまま自分を出せば出すほど遠ざかっていくのだと思う。
かと言って、テクニカルに寄せたものは"ときめき"が少ないと感じてしまうのも事実。

ほら、揺れている。
ふみぐら社さんのサークル「これからのライター」で今まさにこういった話題が繰り広げられている。自分らしい文章を突き詰めたいのか、今すぐ書くことでお金を稼ぎたいのか。目指す場所によって、それぞれの描く地図は変わる。
一度にぜんぶは手に入らない。その過程で生まれる揺らぎすらも、言葉に、文章にしていけばいい。地図は何度だって描き直せるのだから。

フィードバックをお願いしたとき、もうバッサバサと斬られるのかとびくびくしていたのだけれど、仲さんはとても真摯で紳士な方だった。宝物にしたい言葉をたくさんいただいた。
智春さんあきらとさんの添削話が大層おもしろく(智春さん=interesting、あきらとさん=funny)公開されており、ご依頼が殺到していてお忙しいようなので今さら私が「おすすめ」と声を大にして言うのも憚られる。だからそっとリンクだけ置かせてもらう。

仲さん、この度はありがとうございました!!!コロナウイルスが収束した暁には、必ずカリフォルニアワインを持ってお礼参りに伺います。


最後まで読んでいただいてありがとうございます。これからも仲良くしてもらえると嬉しいです。