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ヒーローのフリして人を傷つける人間であるな

世の中でいろんなことが起こる。
ぐるぐるとびっくりするくらい、いろんなことが。
時が経つと世間から忘れられる。無責任に人は忘れるから。

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先日、とある人が亡くなったとニュースが流れた。

亡くなる原因は諸説あるだろうし、世間に出ていることが全てではないだろう。だが、世間は無責任に誰かが原因だと責め立てる。

それまでは好意的な声をかけ続けていたはずなのに。
それが怖い。誰かがこの世から去ろうが去らなかろうが、その前後で一貫してその対象を責め続けているのであれば問題はない。

だけど、死人に口なし、なのだ。
だからって、って思う。

亡くなることを責めれないとは思う。
個人的に、自らそういう選択をした方を知っているし、そういう選択をした人のとても近くにいた友人もいるし、それぞれにはそれぞれの理由があるから、その選択を責めることはできない。
だけど、それを理由に誰かを傷つけていい免罪符にはならない。特に直接の関係者以外は。
いじめは別だ。集団暴行とか、明らかに圧倒的多数が1人を苦しめていたのなら、それは死においやった人は責任を負うべきだろう。

だけど、不思議なのだ。
そういうやつらは実名報道もされず、誰からも攻撃されず、なんやかんやで生きている。ちょっと若い頃やんちゃしてましたーって自慢しながら。あほか。未成年でもそんな年齢を免罪符になるべきではないよね。
なんのために道徳の授業があるのか。
遅くとも義務教育が始まるときからは、人の嫌がることはやめましょうって教えられるのに、それを理解するのは成人年齢に達してからでも良いってことなんだろうか。んなわけない。
だけど、そういう非人道的なことを明らかにやってきた人が普通に暮らしていけている世界がここにある。

なのに、なのに。

誰も何も本当のことなんか当事者同士しかわかるはずないことを、週刊誌が勝手に書き立てて、それが事実である根拠も乏しいようなこともあって、そんなよくわからない稚拙なストーリーに踊らされて、そうだそうだ!ととりあえず同意している人間が怖い。まあ、週刊誌ではなく、ネットニュースも。ネットもだし、テレビも。
同意するだけなら別にいい。何を信じるか信じないかはその人の自由だ。自分の中で楽しむのなら別になんだっていい。親しい友人同士や家族と話題にして笑い合うくらいなら別にいいんだと思う。人に話すことで消化できる感情があるのは事実だと思うから。
だけど、そんな自由と権利を履き違えられても困る。

メディアが、嫌いになりそうだ。

まあ、そもそも、もう10代の頃から基本的にメディアのことを信用していないので、テレビも雑誌も新聞も、それぞれの母体の何かしらの事情が絡んでの発表というかニュースを流していると思っている。
だから、事実を事実という体で伝えているものだとしても編集されたものには必ず演出が入るので、基本的には何事もフィクションとしては楽しむが、ノンフィクションとは思わないことにしている。

まあ、そんなことを、誰かに強要したいわけではない。人の数だけ、いや人間に限らず、命の数だけ考え方はあるもんで、それをひとつに統一なんて絶対にできないのだから。

ただ、、、。
人を攻撃することにもっと責任をもってほしいな。
いくら匿名だったとしても。もはや、今時の技術をもってすれば、誰が何を書き込んだかなんてすぐにわかるだろうに。
まあ、僕なんて、私なんてって思ってるんだろう。

いやいやいや、、、、。
もうさ、数々のニュースで、これまでも、言われてきたじゃないか。世間の声が原因でいくつもの命が失われている、と。

なのに、私の声は誰も傷つかない独り言だから、ですか?これが当事者意識の低さってやつかしら。
あー、ばからしい。

というか、なんか悔しい。
何が悔しいかってさ、誰かが亡くなったことをきっかけに、誰かの評価が180度変わること。
直接の人殺しならいざ知らず。

何をもって評価をしてくれていたのだろうって不思議になる。
別に考えが変わる事自体が悪いことではない。
ただ、ただただ世間の声だけに従って、誰かを責めることは避けてほしいし、もしどうしても攻撃したいのなら責任を持ってほしい。
自分の言動に。
それがどれだけ、人を傷つけるのか。

正義のヒーローのフリして人を傷つける言動を繰り返す人間が少しでも少なくなりますように。




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