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ずっと普通の人になりたかった

小学生の頃よく同級生に「塩飴さんは面白い」と言われていた。もしかしたら目立つグループの方にいたからかもしれないが、私がしたことで笑ってくれたりと面白がってくれる人が多かったようだ。そのことに対してなんだかいつも不思議に思い、こんなことを感じていた。「ああ、多分私は変な人って思われているってことなんだろうな」と。

実際には年端も行かない子供のことだし、ネガティブな意味で言っている人なんかいなかったのだろう。だけど自分はそういった本質に気付くことがとても早いタイプだった。「他の人が言わないようなことだから面白い」のだ。同じようなことを言っていては「ありきたりなことを言う人」ということで、そっちが普通なのではないか。私はそれ以降自己紹介に「ちょっと変な人ですが仲良くして下さい」など一言足すようになった。


その後私は諸事情があって教室でできるだけ目立たないようにして過ごすことを選ぶようになる。この時から「面白い」と言われる自分はいなくなった。みんなと同じに扱われるのはむしろ気が楽だった。本当の自分を出して違和感があるよりも、このくらいの方が自分には向いていたのではないかと思うくらいだった。

人前で個性を出さないまま、気が付けば大学受験の時まで来ていた。友達の前では本来の自分を出してはいたが、それでも他の人の前では自分を抑えていた。そんなある日予備校の先生に進路のことで呼び出されて「変わっているね。あなたの友達も変わっていると思うけど」と言われた。私は心に杭を打ち込まれたかのような気持ちにさせられた。

私は父の意向のせいで自分が本当に行きたい大学を志望校にしてはいけないとされていた。実力から見ても無理に見える場所を志望しろと言われていた。だけどその通りにしたら「普通じゃないことがばれた」し、友達も「変わっている人だと言われた」ことで今まで必死に隠していたものが全て暴かれてしまったと感じた。ずきずき痛む胸を抱え、その日は一晩中眠れなかった。




時は過ぎて今、私はnoteで自分を表現している。ここでも自分のすべてを明らかにしているわけではないし、このままでいいのだと思っていた。「変わっている/おかしいと思われる」ということはそれでも何度もあった。そのたびに自分を抑えたほうがいいのかと考えてしまう。好きなことを書くことが全ていいことのように言う人もいるが、そのせいで嫌な思いをしてきた人もいるのだと言いたくなる。

本当は好きなことを加減して書ければ良かったのだろう。けどどの方向性の話が地雷になるのかもわからないのでそれもなかなか難しい。


そんなことを思っていたら、昨日こんなことをネットで見かけた。それは「自分を隠している人は信用されないし、仲間にも入れてもらえない」ということだ。実はこれは私が悩んできたことのうち、かなり広い部分を占めていることだった。人に好かれようとするからこそ嫌われるということの一例だという。がんと頭を殴られたような気がした。

私は今まで自分が変わっているとか、おかしい人だと言われることが怖くてここまで自分を隠して生きてきた。だけどそんな風にマイナスな効果の方が出ているのなら、いっそ「変わった人」のままでいたほうが良かったのではないか? それを出していたからこそ他の友達がいてくれていたのではないだろうかと。


先日親戚と一緒に食卓を囲む場に呼ばれ、いろんなことを話した。何年も会っていないこともあってか、親しい席でわいわいと話は弾んだ。するととあるきっかけで従兄弟に「やだー!塩飴ちゃんおもしろい!」と喜んでもらえたのだ。私が口にしたのは何気ない言葉だった’(と思っている)のだが、どうしてかこのときはとても嬉しく感じた。

この瞬間、私は本当は子供の頃も自分が何か言ったことでみんなが楽しんでくれたりするのが好きだったということをようやく思い出した。「それは自分が変な人だからだ」と思ったのは内心ひねくれている素質があったからだろう。それだけの話だったのだと今更ながらに俯瞰できた。



ずっと普通とされる人になりたかった。でもそれは本当は一番ではなかったのかもしれないと気付いた。何かを言った結果、普通の枠に入れなくて「失敗した」と感じて落ち込むことが怖かった。嫌われることが怖かった。いつからか「こうなりたくない」という失敗回避の気持ちが、本当の私の欲求から目をそらさせていた。

それはいつもでなくてもいいし、無理してまでやることでもない。仕方なくやることでもないし、気持ちに余裕のない時はやらなくていいと思う。ただ、自分の届く範囲でもいいから笑っていて欲しい人たちがいる。

今はまだ、少しずつでも。

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