自分の本音が分からなくなってしまったときには
私が悩んでしまうのはどうやら癖らしい。
先日、とある人に「悩んだときはどうしていますか」と尋ねてみた。するとその人からは「うーん、僕はそもそも悩まないようにしているかな」と返ってきた。
悩まないようにする、その思考がいまの私の中にはたぶんない。何か出来事が起こるとそれを頭の中で考えはじめて、どうしたものかとずっとぐるぐると頭を抱えてしまう。そして無意識のうちに「考える」から「悩む」へ勝手に移行しているのだ。
もはや考えること、悩むことが癖になっているんだろう。
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このままフローリストへの道のりを歩んでいいものか。
私は一体どうしたいんだろう、本音がみえなくなってしまい立ち止まって考え事を繰り返していたのが先月半ばの私。
そのときの私はこれからの働き方について、誰かに話そうとすれば涙がでてくるし何を言いたいのか言葉にすること自体ができなくなっていた。
話せないのなら文章にして書き出してみようと思っても、途中でしんどくなりこれまた最後まで書き上げることができない。
自分が自分じゃなくなっていくような感覚だった。
そんな日々の中、私は自分の心地よさだけを優先してみることにした。居心地のいい人、場所、環境、それだけを求める暮らし。
好きな人だけに会う、行きたい場所にしかいかない、信頼できる人だけに本音を話してみる。いろんな言葉やアドバイス、情報に本音が流されてしまっていた私にはそれがぴったりの処方箋だった。
すると次第に元気は戻ってきて、週末の花屋勤務の日がまたやってくる。花の仕事につくかどうか、そんな悩みを抱えながらの朝は目覚めがすこぶる悪かった。
でも、と重い腰を上げて私は仕事へ向かう。
その日の休憩時間、私は冒頭の問いを投げかけてみたのだ。その相手は未経験の私を週末バイトしてみないかと誘ってくれた人。
「悩んだときはどうしていますか」私の漠然とした問いかけに対する答えには続きがある。
そもそも悩まないようにはしているかな。けれど何かを選択しないといけないときは自分がそれを「やりたいかやりたくないか」で決めるかな。自分がやりたいのかどうかっていう気持ちがなによりも大事だと思うんだよね。だから仕事においてはどんなに報酬がよくても、やりたくない仕事は受けないようにしているんだよね。
自分がやりたいかどうか、本音がみえなくなっていた私にはその思考がすっぽり抜けていたようだ。
まわりがこう言うから、こう見られているから、先月の私はそんなことばかり気にしていたような気がする。自分がやりたいのかどうか、答えは思っていたよりもうんとシンプルだった。
「このままフローリストへの道のりを歩んでいいものか」ではなく「私はフローリストへの道のりを歩んでいきたいのかどうか」、後者の問いに対する私の答えは「やっぱりやってみたい」だった。
そうだ、そもそも私が前職を辞めたのも「仕事で頑張らなきゃいけないのであれば、自分が頑張りたいと思えることがいい。私は花に関わる働き方がしたい、チャレンジしてみるなら縛りがなにもない今がいい」という理由からだった。
分からなくなってしまっていた本音は、実はずっと前から私の心の中にいたらしい。まわりばっかり気にしてただ見えなくなっていた、それだけのこと。
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いまはだいぶ前を向けるようにはなってきている、けれどまだ本調子ではないというのが実情。でも悩み、泣いた分、嬉しい出来事も入ってきた。その中には花のお仕事に関することも、だ。
花が好き、花に関わる働き方がしたい。その想いを大切に。
また悩み癖がでてきてしまったら、自分の気持ちが迷子になってしまったら。すぐに取り出せるように、初心を忘れないように、心の引き出しの手前に置いておこう。
ただただシンプルに「自分はそれをやりたいのかどうか」、そんな問いも添えて。
日々の楽しみに使わせていただきます!