《短編》ポニーテール
初めて彼に髪をくくってもらったのは、いつだっただろう。
随分と昔のような気もするし、案外そんなに前じゃなかったような気もする。
その頃私は不安定で、
そんなに飲んでもいないお酒に酔ったふりをしては、彼に無理な甘え方をしていた。
ずっと前から決まっていた彼の予定を無視してそばにいてとせがんだり、
バイトに行く前の彼にコップのお茶を浴びせたり、
文句も言わずに私の泣き言を聞いてくれる彼を本当は鬱陶しいんでしょとなじったり。
彼は一度も怒らず、ただ沈黙し、困っていた。
その日の朝はいつにも増して憂鬱で、なんとかベッドから出たあとも、彼の作った朝食を食べるでもなく箸で弄っていた。
そんな時は何もかもに腹が立って、なぜこのコーヒーは呑気に湯気を立ててるの、とか、今日はどうしてこんなに太陽がぎらぎら光っているの、とか、思い付く全ての文句を頭の中で転がしていた。
ことさら腹が立ったのは自分の髪の毛で、生まれつきの猫っ毛は私が頭を動かすたびにふらふらと視界に入ったり、不愉快に顔を撫でたりする。
だから、
かみ、くくって
と言ったのは、いつもの気まぐれで、彼を困らせる術のひとつだった。
彼は美容師じゃないし、妹がいたわけでもない。
案の定彼は困った顔で、自分の朝食を置いて、私が差し出したヘアゴムを受け取った。
こわごわと、くくってはほどいて、くくってはほどいてと繰り返し、10分ほどたってやっと、
できたよ
と、言われた。
私はその間うつらうつらとしていた。
まだ半分夢の中にいて、かろうじてありがと、と言った。
別に、出かける予定もなかったし、髪がまとまってさえいればそれでよかった。
でも、夜洗面台の前に立った私の髪型は、かんぺき、だった。
きれいな、ポニーテール。
髪のまとめ方は美しくて、適度にあそびも持たせてある。
前から見た形も、横から見た形も、いい。
自分でくくったときよりも、いい。
どうして20年以上この髪と付き合ってきた私よりも、彼の方がきれいにまとめてしまえるのだろう。
不思議だった。
彼の手が不器用であることを、よく知っていたから。
そこから、時たま、彼に髪をくくってもらうようになった。
数を重ねるごとに、彼もなれて、初めよりずっとはやくポニーテールにしてくれるようになった。
いつでも変わらずに、その形はかんぺきであり続けた。
最後まで。
彼と過ごす3回目の冬が終わる頃、私たちは別れた。
好きな人ができた、と、言われた。
ごめん、とは、言われなかった。
私は、今日も、髪をくくる。
ポニーテールでいることに慣れてしまったからそうするけど、力を入れて縛ってしまうのでぴしっとしすぎて、あまりきれいではない。
だからといって力を抜くと、すぐに形が崩れてしまう。
どうにか彼がやったようにしたいのに、上手くいかない。
何が違うんだろうと、ずっと、思っている。
それがわかったのは、数年経ってからだった。
私はなんとかやりたいことを見つけて、今はその仕事に就くために見習いみたいなことをしていた。
完璧とは言わないけど、充実した日々だと思うことができた。
あの頃のように、自分の不安を埋めるために他人を困らせるなんてことはしなくなっていた。
じぶんを、愛せるようになっていた。
久しぶりにもらった丸々1日のオフだった。
それまでほったらかしにしていた髪を、染め直すか、切るかしなきゃなと思って、鏡の前に立った。
ふと、思い立った。
手首にひっかけてあるゆるゆるに伸びたゴムを捨て、新しいものを出した。
ただひとつに纏めようという気持ちじゃなくて、全てを変えるような、塗り替えるような、自分に期待を込めて、縛った。
鏡に映ったのは、あの、形だった。
彼がずっと、してくれてたポニーテールだった。
かんぺき、だった。
前から見ても。
横から見ても。
じいっと、その形を見続けた。
彼は、わたしを、変えようと、思ってくれてたんだなあと思って、すこしだけ泣けた。
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