彩人「けどさ…」 美咲を後ろから抱きしめる腕が一瞬緩めた。 彩人「子供の頃にチョコの中で“マーブルチョコ”が1番好きだったって、前に話した事が有ったけど…」
♪ *・゜゚・*:.。..。.:*・' .。.:*・゜゚・* ♪*・゜゚・ *:.。..。.:*・'*:.。. .。.:*・゜゚・* 。 ♪ この一室の空間を震わせるピアノの音色は、過去と今を混じ合わせて繋がった。 俺は演奏しながら、そんな初めての感触を味わっていた。 机の隣に座って数学を教えてくれた頃の美咲の笑顔や、自転車の車輪の回る音、雨上がりの匂い…秋の冷えた空気…そんな様々な感触が、どんどん流れて
彩人君と向かい合って座ってる2人のこの時間が、まるで止まっているように息を潜めている。 彼のセンター分けの髪から覗く額に、西陽が当たって、薄茶色の瞳が薄く光った。 彩人「好きだって…ずっと言えなくて」 美咲「うん…」 彩人「ちゃんと伝えたかったのに、 俺は言えないダメな子供だった」 前よりずっと大人びて見える彩人君は、両手で顔を覆って言葉を絞り出すようにそう言った。 彩人「…突然会えなくなってパニックになった。俺のせいで、美咲を傷つけたんだって、
ーー♪ 切れた息と、震える指先でチャイムを鳴らしたけど、美咲が開けてくれるのを待たずにルームキーでドアを開けた。 「美咲…」 窓からの眩しい逆光で美咲の表情がよく見えない。 「…彩人君」 花の香りに包まれて、思考が上手く回らない。 彩人「久しぶり。 元気だった?」 美咲「…うん」 彩人「いや、久しぶりっていうのは、向き合わうのが久しぶりって意味で… 演奏いつも聴いてくれてありがとう」 美咲「気がついてくれてたんだね」 彩人「初めから
「ああもう…緊張した」 人生初の大仕事って言ってもいい程思い切った行動をした。 私、ちゃんと歩けたよね。 私、ちゃんと渡せたよね。 ガクガクとする足の震えが止まらないまま、エレベーターは上階まで、ぐんぐん階数を上行していく。 部屋のルームキーを開けると、生けられたアレンジメントフラワーからの清々しい花の香と、窓からの陽の光にクラクラする。 フカフカの白いベッドに、うつ伏せに身体を投げ出した。熱った頬に白いベッドカバーの冷たさが調度心地いい。 仰向けに体制を
レン「走ってったね、王子」 俺と彩人のやり取りを聞いていたレンが、階段かを上がって声をかけた。 客が居ない時間帯とはいえ、流石に大きな声だったと反省。周りのホールスタッフがチラチラとこっちを見ている。 涼 「遅すぎんだよ」 レン「良かったの?、あれで」 涼 「何が、」 レン「なんとなく“引き裂く方向”だって有りだったんじゃないのか?」 涼 「そんな事出来ませんって」 レン「まさか涼が“窓際姫”に、気持ちが有るって知らなかった」 涼 「別にどうこうなりたいとは、初
ハァ… 涼「行ってやってよ彩人、お願いだから」 彩人「ごめん涼、」 そう言って、咄嗟に俺は箱を持ったまま走り出した。背中越しで小さく『遅ぇんだよ、』って呟く涼の声が聞こえて心が痛む。 ホテルの濃紺の絨毯を踏み締める足と心臓の音がリンクする。心の中心まで感情がドンドンと響いて来るようだ。 涼は、美咲に特別な感情が有ったのか? ずっと俺は逃げてきた。自分の気持ちからも、 週末、必ず来てくれていた美咲からも。 美咲がエスプレッソを注文する度、 コーヒーラウンジの裏から聞こ
このホテル自体がラウンジ中心の構造に造られてるからって理由なのも有るけど、ホテル関係者内ではちょっと有名だった毎週現れる“窓際姫”が、ピアニストにチョコレートを渡した瞬間の周りの注目度って言ったらそれは物凄かった。 俺達1階のベルボーイは、もちろん、事情を知ってるホテル関係者は皆、固唾を飲んで状況を見守った。 彼女の行動に思いを巡らせる。 決着、着けたいんだろうな。自分の気持ちに。 箱をピアノにそっと置いた彼女は、いつも降りる階段に向かって歩いて来なかった。 反対の方
俺がピアノの演奏する土曜日と日曜日には、美咲が必ず来てくれていた事を知っていた。 今日2月14日バレンタインデーは、美咲の結婚記念日でもある。 だから、彼女は来る訳ないって思いと、来てほしいって気持ちが頭の中で戦っていた。 今日のこの空間には、チョコレートと、コーヒーの香と沢山の笑顔が溢れている。 バレンタインデーに相応しいスタンダードなナンバーのマイ・ファニー・ヴァレンタインを、演奏の1曲目として弾き始めた。 パチ パチパチ… ピアノの椅子に座った途端に拍手
俺は、来客で賑わうフロアで、コーヒーをトレイに乗せて運びながら、ふと窓際のあの子を見た。 真っ直ぐな背中が、思いがけずゆっくり立ち上がって驚いた。 その拍子にトレイが揺れてコーヒーの水面が、ゆらりと波打つ。 雅喜「ぅゎっ!!」 今まで窓の外を見ていた彼女が、ゆっくり向きを変えて、彩人へ向かって歩き出したから、目が勝手に追いかける。 窓際姫は、コートとバッグと一緒に長方形の箱を持ってる。 赤いギンガムチェックに白いリボンのそれって多分、チョコレート…だよね?、客が一斉に
このホテルは中央に、コーヒーラウンジを配置した造りになっている。 2階奥にはBARが有って、そこで働く俺は、まるで劇場の舞台を2階席から眺めるように見下ろすこの風景が好きだ。 今日のコーヒーラウンジは、バレンタインデーのイベント当日とあって、ピアノ演奏が始まる随分前からカップルや女の子達で賑わっている。 こんなに沢山の来客者で賑わったら“窓際姫”のいつもの席が埋まってしまうんじゃないかと心配だ。 だけど、窓際のあの席には誰も座らなかった。 どうしてだろうと様子を見ていた
俺がそもそも、ベルボーイのバイトをしようと思ったきっかけは、ハーモニーホテルの空間に気持ちが惹かれたからだった。 ホテルスタッフの求人募集を見つけて、何となく受けに来たバイトの面接だった訳だけど、 このドアを開いた瞬間、別の世界に来たような気がして、息を飲んだ。 みんな日常とか毎日の色々を抱えて生きてるけど、時々、そこから抜け出したくなる事が誰しもが有って… このホテルの扉を開いて、足を一歩踏み入れると、その先に広がる広い空間がまるで異次元に感じた。 オレンジ色のランプの
週末に、必ず彼が演奏してる事を知ってから 聴きに行かない事なんて、出来なくて、毎週ホテルに通った。 彼の好きだった色、彼の好きだった香り、無意識に彼の好きだった物の記憶を手繰り寄せて身を包んだ。 真っ直ぐ向き合う事が出来ないから、いつも席は奥の窓際。 想いをひた隠しにして、耳だけで一生懸命“彼”の形を思い描いていた。 聴きに行くのはもう辞めよう。 今日で最後にしようと何度も思うのに、あの音がもう1度聴きたくて、毎週足を運んでしまっていた。 夏と秋と冬を通り過ぎて、季節は
 ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄  ̄ 彩人「美咲先生は、ピアノの曲は聴かないの?」 美咲「ショパンのノクターンが好きでね、 最近、楽譜屋さんに買いに行ったの。 そしたらすごく難しそうで、買うのやめちゃった。だから楽譜が読める人って尊敬する」 私は小学4年生までピアノを習っていたけど、 練習が追いつかなくなって、辞めてしまった。 数学の問題を解き終えた彩人君は、『ノクターンの何番?』と、言った。 美咲「えぇっ///?、あれだよ、有名なあの…」 彩人「歌ってみて。何番か当てるから」 美咲
麗 「1日早いけど、これ、もらって」 レン「ありがとう」 麗さんは、小さな箱を俺に手渡した。 そう言って、先輩の麗さんは、照れくさそうに ショートカットの髪に触れた。 「明日のバレンタインデーは、シフト入ってないから早めに渡したくて」 他の同僚にも渡しているのを見たから、特別な想いが込められてないと思うけど、やっぱり嬉しい。 レン「あれ、見て」 2階の踊り場通路から見下ろすラウンジに、今日はやたら女の子率が高い。 バレンタインデーを明日にひかえた今日、まだ控え室に