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19杯目



週末に、必ず彼が演奏してる事を知ってから
聴きに行かない事なんて、出来なくて、毎週ホテルに通った。

彼の好きだった色、彼の好きだった香り、無意識に彼の好きだった物の記憶を手繰り寄せて身を包んだ。

真っ直ぐ向き合う事が出来ないから、いつも席は奥の窓際。
想いをひた隠しにして、耳だけで一生懸命“彼”の形を思い描いていた。

聴きに行くのはもう辞めよう。
今日で最後にしようと何度も思うのに、あの音がもう1度聴きたくて、毎週足を運んでしまっていた。
夏と秋と冬を通り過ぎて、季節は気づいたら
ぐるんと一回りしてしまった。

私に気がついて…ないのかもしれない。
私に気がついて…いるのかもしれない。
でも、そんな事はどっちでも良かったのかもしれない。

引き止められたいと願いつつ、私を想い出にされている現実を知るのが怖かった。

彩人君は、もう前を見て先を歩いているのに、
私だけ、まだあの頃のまま。
目の前のエスプレッソのカップは空っぽなのに、いつまでも口の中はほろ苦い…そんな感覚と少し似ている。

ホテルの入り口の重々しい硝子のドア。
相変わらず胸が痛くなるくらい優しい眼差しのベルボーイさんは、いつも丁寧に重い扉を開いてくれた。

彼が発するのは「いらっしゃいませ」って一言なのに、
「よく来たね」って私には聞こえた。
「頑張るね」
「1年前過ぎたね」

言葉なんて交わさなくても、一瞬合う瞳の奥を見たら、彼の暖かい気持ちが伝わって来た。

だけど
もうそろそろ終わりにしなくちゃいけないよね
明日のバレンタインで終わりにするね。
彼の側から離れたバレンタインの日に。






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