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秋の空気と車の運転

実は車の運転が好きである。
エアコンを入れる必要のないこの季節に少しだけ窓を開けて冷たい空気を車内に吹き込ませ、一人運転するのが好きだった。

大阪から愛知豊川まで往復400キロほどをどれだけ走ったであろうか。
深夜の名阪国道を奈良、三重の山中を走り、伊勢湾岸道を水平線から登った朝日を浴びて走った。そして豊田ジャンクションから東名高速に降りればもうほとんど帰ったような気持ちになったものである。

着いてからの諸々の用足しにも車は不可欠であった。
父が無理して死の直前まで運転していたのはどうしようもない必然性からであった。

今、私は駅近くに転居してマイカーを手放した。
総合病院もスーパーも市役所の支所も図書館も全て徒歩圏内である。

兄の残る愛知に帰る時は新幹線が中心、必要な時にはレンタカーを借りる。
久しく車を手放す事が出来なかったので、車無しの生活の気楽さをしばらく噛み締めていた。

マイカーを持つという事はかかる経費ばかりか、そのために割かれる時間が大きかった。
運転中は本も読めず、居眠りも出来ず、ただただ運転に専念しなければならなかった。

私たちが想像する以上に進んでいる自動運転がいずれはそんな事を解決してくれるのだろうが果たしてそれが良い事なのか疑問である。
労働力が著しく不足する運送業や、ハンディキャップを持つ方達の行動範囲が広がり自立の役に立つならば歓迎もしたい。
しかし、なんの支障も無く生活出来ている私たちにそこまで必要なのであろうか。

交通事故の無い世の中が実現されることを第一前提にして、乗物の電気化と自動運転とそれにかかるインフラ整備をセットで社会基盤まで変革し、産業革命を起こし、日本の未来の安寧につなげるような大きな目標を持つならば納得もする。

世界の環境対策事情に足並みを揃えるためだけのカーボンニュートラルであり、それにバラバラに乗じようとする企業ばかりであるならば、今一度国内の事情を見直して欲しい。

運転しなければ生きていけない高齢者や新世代の乗り物でもっと生き易くなる障害者のためにも考えていいのではないだろうか。

過疎を防ぐために、希望を持てる世の中にするために電気化、自動運転へ移行する際に大々的に社会の仕組みを変えたらどうであろう。
年寄りには車を運転させない。
その代わり、どんな過疎の進んだ田舎の村にも巡回電気自動車を配備して運転の心配をしなくても誰もが自在に行動できるようにしたらいい。

そんな事を考えるのは私が長く運転をしてきたからであり、父の恐ろしい運転を目の当たりにしたからであり、自身で身動きの取れない要介護者の母、車椅子の兄と付き合ってきたからである。

私ばかりでないこんな実情を抱える人間の多い日本を、何とか明るい未来が感じることの出来る何かがありそうに思える国に変えていきたいものである。


いつも帰りはクタクタでしたが、秋のキャンバスは自然色で染められてそれはそれはきれいでした。

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