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日々考えることのはなし

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毎日考える何か、何かが引き金になり考える何かを綴ってみました
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#生きる

顔に傷あるけしぼうず

この note にやって来て約二か月、ずっと自分の記憶の整理をしていたように思う。 母の半生は兄の出生を悔恨し続け、私には「それでいいのか、あなたの人生をそんなことだけで終わらせてしまっていいのか」との疑問を拭うことはなかった。 父はお気楽に見えた、当時高額な兄の治療費を稼ぐと長く海外に勤務し、すべては母に任せきりであった。 父もゼネコンにいた電気・機械のプロであった。 長い時間は人の記憶をぼやかし、曖昧にさせる。 それは良いこと、悪いことの両面を持ち合わせる。 そしてそれ

自然のいのち

兄の終の住処である田原市は愛知県の南端、東三河地方に位置する温暖な気候の土地である。 愛知県の西方には伊勢湾・三河湾がある。 そこには知多半島、渥美半島と二本の半島が突き出しそのどちらもが風光明媚で人間の生きやすい場所である。 私はその渥美半島の根元にある豊橋市で小学4年から中学3年までを過ごした。 豊橋市の私の住まいから渥美半島の先端にある伊良湖岬まで往復がちょうど100キロほどであった。 当時の私は家にいるのが嫌で、日曜日には必ず自転車でこの渥美半島一周かこの半島のどこ

稽古の帰りに飲んだ酒

いつもじゃないが、稽古の帰りに一人で酒を飲んで帰る時がある。 ゼネコン営業マン時代、帰りに飲んだ酒は飲まなきゃ帰れない酒だった。 ゼネコンの営業には定石は無く、毎回足らぬ頭を使い、心をすり減らし、ついでに靴底もすり減らしていつもクタクタだった。 皆は自身に「お疲れさん」だなんてことを言うが、私に限っては全くそんなことは無かった。 ゴールに着けぬ自身に腹を立て、きっとそれはあいつのせいだと、いつも誰かに矛先を向けて酒の神様に叱られそうなそんな飲み方しか出来なかった。 酒は頭と心

私の好きな世界、でも嫌いな世界

時々こちらでも登場しているメダカの世界、毎回しばらくこの三槽に目を落としから合気道の稽古に向かっている。 合気道の道場にお借りしているスタジオの一階にある石材店のメダカ達の家である。一番左端の水槽には生まれたばかりの稚魚、真ん中の水槽にはもう少し育ったヤツら、そして右側の大きな水槽に成長したメダカ達が泳いでいる。ここの石材店の優しそうな親父さんが共食いしないように分けているのだ。彼ら、彼女らの姿に心癒されていつも稽古に向かっている。 でもどうしてメダカ達は共食いをするので

私の今年の目標

なんだか小学生の冬休みの宿題の作文のタイトルのようです。 漠然とした目標はいつも持ってはいるのですが、少し具体的に今年進むべき方向を示してみようと思いました。 まずは『合気道』です。 最近自身の体力、筋力の衰えを強く感じるようになってきました。40年以上続けた稽古で膝と腰はあまりよくありません。そこで今年は真剣に鍛え直そうと思っています。今やらなかったら手遅れになりそうな、そんな気がしています。 そして自分がこれまで身に付けたものを置いていく事です。合気道ばかりではないと思

最近思うこと

春、浅い緑は漫然と生きる私たちに活力を与えてくれる。 若い緑は光り輝く。 夏、強い陽射しの木漏れ日は私たちに安らぎを分け与えてくれえる。 濃い緑は強く厳しさも持つ。 秋、樹々の変容は私たちに好奇心と想像の力を湧き立たせる。 変わり行く緑は優しかった。 冬、樹々は葉を落とし休息に就く。 残る緑もおとなしく会話はやめてしまう。 不思議です。この歳になるまで樹々の本当の緑を見ては来なかったように思います。そして今やっと緑を見ているような気がしています。同じ樹の同じ葉でも一年

柿の背くらべ

今年久しぶりに口にした柿は甘かった。 そしてその色は赤く濃く変わっていく。 遠くから見ても色づく枯葉の中にあっても柿の赤は目に飛び込んで来る。 その色は種の保存をかけた柿の防衛本能なのであろうか。 鳥たちはその種を遠くに運んでくれる。 鳥たちに連れて行ってもらいたい真っ赤な柿たちは、私には私たち人間同様にも見える。 小さな世界、小さな社会のその中で周りより目立ちたく背伸びする。 私を見てくれ、と背伸びをする。 そんな世界をずいぶん見て来たように思う。 利己に凝り固まった頭は

五郎八という名の酒

早いものである、十二月。 何をせずとも季節は巡りゆき、何をせずとも自身の髪は白く成りゆく。 この歳に辿り着き、やっと周りが気にならなくなり、やっと自分の足で歩いているような気がしている。 日々を生きる。 食い、飲み、そして生きるために働く。 自分の力を知り、その中で働き生きる。 この営みをいつまで続けることが出来るのかは定かではない。 生きるを考える。 考え続け生きてはきたが、この答えはまだ出そうにもない。 家族を支えここまで走り続けてきた原動力は何であったのであろ

考え生きること

広い食堂にただ一人座る兄。 食事の始まる一時間以上も前である。 出産の無理で脳に深い傷を負わせたためのてんかんの持病。 母は一人考え詰めて父の海外赴任時に兄の左右の脳に、医者にメスを入れる事を許した。 さらに高度に複雑になった兄の脳はもう誰にも治すことはできない。 望んで生まれてきたわけじゃない。 いつも死んでしまいたいと思ってた、と初めて聞いた時には泣けてきた。 そんな兄は食堂でいつも一人なにを考えているのだろう。 母との最後の別れだと、車椅子の兄をグループホームに

日記のような、びぼーろくのような(2022.10.10 体育の日)

昨日の体育の日、午後に合気道の所属会の稽古会があり大阪市の体育館に向かった。 このコロナ禍で久しぶりの所属会派の道場が集まっての稽古会だった。 百人以上が集まった。 指導は八段の主席師範、所属会のトップである。 70歳を越えるがさすがプロを思わせる身体の動き、関西で一番若い八段である。 大阪に三名、奈良に一名の八段、兵庫、滋賀、京都には八段はたしかいなかったと思う。 初冬を思わせるこのニ三日だったが、小雨が残る湿潤な天気は久しぶりに大汗をかかせ、稽古を終えた。 帰りにふと気

明日は我が身

ある人間から 「頭の中をカラッポにすることは、たまには良いことだと思います。新しい風が入ってきそうです。」 と言われた。 その通りである。 考え詰めることがいつも良いとは限らない。 新型コロナ禍のなか、人と会う機会が減ってしまい独り考える時間が増えてしまった人は少なくないのではないだろうか。 まったく違う事を考える。違う環境下で考える。一度リセットする。 それには他人と話しするのが一番である。 私の母は一つの事を考え詰めた。 私はそれがアルツハイマーの原因の一つにもな

夏の通天閣

これが夏に私がいつも目にする風景である。 社会人になるまで大阪には縁は無かった。小学生の低学年の頃、兄の診察のため朝早くから車で愛知から連れ出され、兄の診察中の数時間を父と『なんばウォーク』で過ごした。それ以外二十数年間大阪も含めた関西には一切縁は無かった 大学進学も東京に目を向け関西には目を向けることは無かった。 なのに人生は不思議なものである。 ゼネコンでの振り出しは生まれて初めての京都の地であった。 その晩にタクシーで八坂神社の鳥居の元まで乗り付けて私のサラリーマン人

牛乳瓶のフタだった頃

私がまだ牛乳瓶のフタだった頃、夏の暑さにはメリハリがあった。 朝の早い時間はまだ涼しく、ラジオ体操で倒れるヤツなどいなかった。 残り物の毛糸で母が首からぶら下げれるようにした体操カードを持って近所の公園まで行ったのである。 タケちゃんのお父さんが前に立って体操をしていた。 私たちは適当に体操をし、カードにスタンプをもらい、午前の待ち合わせを約束して家に帰り朝メシを食べた。 子ども達はランニングに半ズボン、ゴムのサンダルで野球帽を頭に捕虫網片手にセミ捕りに出かけた。 ニイニイ

幸せの基準

猫の話で恐縮である。 中にはお好きでない方もいらっしゃるだろうがご容赦いただきたい。 我が家で共に生活していたトラの青年時代を彷彿させる野良らしき猫と近所で出会った。 わりと肉付きはよく身体も大きめでどこかでエサをもらっているかも知れない。 ケンカが強いのかも知れない。 などと考えながらこいつと目で会話をしていたのだが、ふと思った。 飼猫と野良猫のどちらが幸せでどちらが不幸なのかと。 私が猫に成り代わり、両者の立場から考えればそれぞれの説が成り立つ。 一般的に考