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考え生きること

広い食堂にただ一人座る兄。
食事の始まる一時間以上も前である。

出産の無理で脳に深い傷を負わせたためのてんかんの持病。
母は一人考え詰めて父の海外赴任時に兄の左右の脳に、医者にメスを入れる事を許した。
さらに高度に複雑になった兄の脳はもう誰にも治すことはできない。

望んで生まれてきたわけじゃない。
いつも死んでしまいたいと思ってた、と初めて聞いた時には泣けてきた。

そんな兄は食堂でいつも一人なにを考えているのだろう。

母との最後の別れだと、車椅子の兄をグループホームに連れて行くとアルツハイマーの母は私の耳元で言った。
「あの人、だれ? かわいそうだね」と。
兄は黙って聞いていた。
帰りのコンビニでフランクフルトを食いながら兄に「すまんな」と詫びた。
「いいよ、ひできが悪いわけじゃない」そう言ってくれた兄の顔を見ることは出来ず泣きながらハンドルを握り、兄を施設に送った。

行政の福祉課と喧嘩をしながら兄の受け入れ先の施設が決まった時、パンフレットを見た兄は私に言った。
「ここに一生居たらいいんだな。」
私はなにも言い返せずうつむき黙って泣いていた。

人生はこんなものさと割り切り、自分に言い聞かせ、重なりいく負のタイミングを一つ一つ消していった。
それだけで精一杯の十数年だった。

いつも兄は兄貴だった。
そして兄貴に泣かされた季節はいつもこの秋だった。
底抜けの青空と澄み渡る秋の空気に流れる懐かしい香りと背中あわせに、真冬の全てを切り裂きそうな冷たい空気がそこにはあった。

半世紀以上も前に並んで座って見た豊川穂ノ原のススキ、二人手をつなぎハッピ姿で向かった秋祭りの神社、兄貴と二人の思い出は色あせても消えることは無い。
そして、一人ぽつねんといる食堂の兄貴の姿も私の記憶から消えることは無いだろう。
ただそこには兄貴一人しかいない。

共有できぬ思い出作りを始めた私を兄貴は笑うに違いない。
「ひできはバカだなぁ、、」ときっと笑い飛ばすに違いない。
でも、まだ言ってない。
また兄貴の前で涙を見せたくないのである。

人の運とか不運とかを考えることはずっと前に止めてしまった。
兄貴のように考え、ひたすら生きるしかないのである。
生きている限りひたすら生きるしかないのである。

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