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夏の通天閣

これが夏に私がいつも目にする風景である。
社会人になるまで大阪には縁は無かった。小学生の低学年の頃、兄の診察のため朝早くから車で愛知から連れ出され、兄の診察中の数時間を父と『なんばウォーク』で過ごした。それ以外二十数年間大阪も含めた関西には一切縁は無かった
大学進学も東京に目を向け関西には目を向けることは無かった。

なのに人生は不思議なものである。
ゼネコンでの振り出しは生まれて初めての京都の地であった。
その晩にタクシーで八坂神社の鳥居の元まで乗り付けて私のサラリーマン人生は関西で始まった。
祇園で飲み、先斗町で飲み、大阪に移り梅田で飲み、北新地で飲み難波で飲みミナミで飲み、京橋では酒に浸るように毎晩飲んでいた。

こんなことは言い訳にしかならないが、生きるために飲んでいた。
先の見えぬ自身の人生が怖くて毎日酒におぼれていたようにも思う。
朝から晩まで仕事をし、寝る前まで酒を飲み、二日酔いで早い時間の電車に乗り込み、会社に着けばまた同じ一日が始まるのである。

でも、長くかかってしまったが通り過ぎてきていろんな事が分かった。
今は、すべては自身に必要なことだったと思っている。

どうして兄たちのような生まれながら不幸を背負ってくる人間がいるのか、子どもの頃から不可解であった。
でも、外見が違うだけで皆変わりはないのだと、今は思えるようになっている。
不幸を決めるのは第三者じゃない。
兄の気持ちは兄じゃなければわからない。
いつでも私たちは上から目線で考えてしまう。
でも兄の方が大局を見ていた。
「直るものじゃないからどうもならないだろう」と。
それは諦めでも開き直りでもない素直な兄の気持ちであった。
「だから死ぬまで生きるよ」と。

祇園や北新地のクラブで酒を飲んでも楽しいと思ったことは無い。大阪駅のガード下や通天閣の足元で飲むのと何が違うのか、人の金で飲むのか自分の金で飲むのかの違い以上の何かがある。
大阪駅のガード下や通天閣の下で夕方仕事帰りの人たちに紛れて一人酒を飲むのが好きである。
一日あったことを振り返り、自分で自分をねぎらいまた明日の労働につなげていく、明日からの生につなげていく、そんな中で地に足をつけて酒を飲む。
これが今の私の安心であり、私の生の確認なのである。

ただ飲みたくて飲むのではない、酒を飲むのには意味があることもあるのである。

「この上ない酒に出会えたら命名しようと思っていた」と、発酵学者 小泉武夫が命名した純米吟醸無上盃(むしょうはい)は奈良豊澤酒造の酒。久々に美味い一杯を稽古帰りに飲んだ。小泉武夫の著書はおもしろい。


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