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日々考えることのはなし

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毎日考える何か、何かが引き金になり考える何かを綴ってみました
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#昭和

顔に傷あるけしぼうず

この note にやって来て約二か月、ずっと自分の記憶の整理をしていたように思う。 母の半生は兄の出生を悔恨し続け、私には「それでいいのか、あなたの人生をそんなことだけで終わらせてしまっていいのか」との疑問を拭うことはなかった。 父はお気楽に見えた、当時高額な兄の治療費を稼ぐと長く海外に勤務し、すべては母に任せきりであった。 父もゼネコンにいた電気・機械のプロであった。 長い時間は人の記憶をぼやかし、曖昧にさせる。 それは良いこと、悪いことの両面を持ち合わせる。 そしてそれ

読書の秋  『ボンボン』石ノ森章太郎

一雨ごとに深まる秋と申しますが、近年の例年のようにその深い秋を一足で飛び越してしまい、初冬を思わせる大阪の一日でございました。 さて、読書の秋、、 とは言うものの最近はとんと固い本からは遠ざかり、ひたすらkindleで青空文庫を散策したり、今まで何度も見た人様の弁当、料理の写真集をながめてニヤニヤしながら夜を過ごしています。 さてさて、探し物のついでに出てきた私が半世紀も前に齧りついていた昭和の漫画です。 石ノ森章太郎 がまだ石森章太郎と名乗っていた頃です。 代表される

夏にハガキを書き思うこと

もうずいぶん長い間、カバンに必ずハガキと万年筆を入れています。 ハガキ、手紙をよく出します。 亡くなった母のアルツハイマー症がスタートした時、少しでも脳のトレーニングになればと思い書き始めました。 兄が施設で生活を始めて寂しい時もあるだろうと思い、兄にも送り出しました。 兄は今、毎週楽しみにしているようです。 三人姉妹一人残った東京に住む母の姉と台湾の母の黄絢絢にも忘れません。 思いついた時にいつでも書けるようにカバンに用意しておきます。 でも、この熱く湿度の高

紫陽花でおもいだす

大阪は朝から雨です。 梅雨を目前に控え『雨』を話題にすることが多いです。 そして、目にする紫陽花は私にいろんなことを思い出させます。 紫陽花は通学路にありました。 その頃、紫陽花を庭に植えているお宅が多かったように思います。 私が住んでいた豊川市の通学路沿いにたまたま紫陽花が多かっただけかも知れません。 紫陽花の大きな葉の裏から出てきたカタツムリの触角がいつ見ても不思議でした。 触ると引っ込む触角が不思議でした。 ナメクジの触角を触る奴はいないのに皆こぞってカタツムリのそ

冬に美味しい『さかな』

還暦を昨年迎えたが、若い頃から魚料理をする機会に恵まれた。 大学に入学するまで魚市場の仲買で働いていたことがある。当たり前であるが魚屋の朝は早い、寒くて汚れてまあまあ危険も伴ういわゆる『3K』の仕事だった。 その分、実入りはよかった。先輩方も気前よく飲みに遊びに連れて行ってくれた。夜遅く朝早いショートスリーパー向きの仕事であった。 季節ごとの美味しい魚をたくさん食べさせてもらえた。新鮮なものを生で食べることが一番ではないことも教えてくれた。 この頃から干物が好きになっ

昭和の釣りの思い出

私の育った愛知県東三河はその先はアメリカ大陸へ続く太平洋、内海の三河湾に面し、そして背後には南信州を控える自然豊かな温暖な地域である。 子どもの頃仲間で連れ立ってよく釣りに行った。 釣れても釣れなくてもよかったのである。釣りが目的ではなく、そこにいることが目的だったのである。 夏井いつきが選者をつとめる松山市公式俳句投稿サイト『俳句ポスト365』で一昨年前に出された冬の季題が『鮃』であった。 季語という不思議な記憶再生装置に呼び起こされた私の記憶を投稿した。 ここ大

椿の花のいさぎよさ

街中でツバキをあまり見かけなくなったような気がする。 私が子供の頃、昭和のあの頃はよく生垣にツバキが植えられていた。 堅い実で何にするわけでもないのに、通りすがりに勝手にとってポケットに入れていたものである。 『椿』は春の季語である。 しかしながら『寒椿』は冬の季語である。 いつまでも初心者の私に俳句創作はなかなか難しい。 夏井いつきが選者をつとめる松山市公式俳句投稿サイト『俳句ポスト365』の兼題に昨年『寒椿』が選ばれた。 いつものように記憶再生装置である季語

『ボートレース』は競艇ではなかった

家内の作った玉子のサンドイッチをかじりながらこの文章を書いている。 思えば家内には苦労をかけるばかりで好き勝手な人生を歩いてきた。 あの年も大晦日まで仕事と称して『夫』としての機能を果たすことのないまま思うがままに生きていた。 あの頃は朝まで仕事や、飲んで帰れなくなることもあった。サウナによく世話になった。 でも、私はサウナが嫌いである。 サウナ自体が嫌いなわけではない。サウナにまつわる思い出が辛いのである。 しかしながら、昨晩このnoteで知り合ったボッチトーキ

通天閣は六五歳

写真は大阪天王寺から見る通天閣である。 以前の商売柄、こんなことが気になるのだが通天閣の竣工は1956年(昭和31年)、今年65歳なのである。 人間で言えば高齢者の仲間入りである。 私より4歳年上と知るとなんとなく親近感が湧いてきた。 いつもならば週二回この風景を見ながら合気道の稽古に行くのだが、このコロナ禍でしばらく休みにしている。 稽古と言っても口だけで教えているのでたいして体は動かさないのだが、全く動かさないのは体に悪い。 特に還暦を意識しだした頃から体調の

『色鳥』でおもいだす

父が他界してもうすぐ10年になる。 父もゼネコンで働いていた、腕のよい技術者だったと皆言った、そして父は家にいなかった。 父は高度成長期の勢いとともに幸せなサラリーマン生活を謳歌し生きた人間である。 今では考えられない明るい未来を信じることの出来た時代であった。 寒い寒い冬に父は他界した。 寒さが父を思い出させるのである。 二年も前の俳句投稿サイトへの投稿文章である。 兼題は『色鳥』、色鳥は秋の季語、秋に渡ってくる美しい小鳥のことを言い、花鳥とも言う。 この俳

ボソボソ教会 と 無言館

へんてこなタイトルである。 不思議なことがあった。 このnoteを始めて3週間、初対面であるフィリピン在住のAkira Yoshikawaさんから昨日フォローをいただいた。 趣味の写真を通じてフィリピンの歴史的建造物や教会について紹介されている方である。 パラパラと記事をめくると『ボソボソ教会』で目が止まった。 どこかで見た教会の前景なのである。 でもすぐに長野県上田市にある『無言館』だと思い当たった。 五年以上前に、ある思いがあって当時信州の大学にいた息子とともに訪

なくなって欲しくない街の喫茶店

もうしばらく行っていない、いや、はやり病で行けなくなっていた豊橋の喫茶店がある。 高校を卒業してから時々時間を過ごした昭和の喫茶店だ。 豊橋は喫茶店が多い街だ。 モーニングで各店が競争している。 初めてこの店に入った時に二日酔いでモーニングを頼んだ。 高校時代のなごりで十代で入る喫茶店には後ろめたさがあった。 他の店のモーニング定番である食パンのトースト、ゆで卵、サラダではなく、バケットのトーストとマスカットが二つぶだった。 なんだか大人の仲間入りをしたような気がした

銭湯でおもいだす

このnote の中で、時々銭湯のことを書かれている方に出会う。 みなさん銭湯を愛され、思い出や思いをたくさん持っていらっしゃる。 入浴と考えてしまえば家庭生活のほんの一コマであって、なんてことはないような気がする。 しかし、自宅から出て行う家庭生活ってのは他に無い、子どもの頃、年に何度か連れて行ってもらった外食くらいしか思いつかない。 子どもの頃の自宅から向かう銭湯は夜に家を出ることの出来る特別な世界であった。 それは私にとっては大人になってもなお、心休まる、うきうきもする特