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日々考えることのはなし

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毎日考える何か、何かが引き金になり考える何かを綴ってみました
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2023年2月の記事一覧

早春の晴天のもと自分に気付く

生まれてこの方後悔したことのない人間なんてこの世にいるのであろうか。 失敗だらけ、後悔だらけで生きて来た私である。 そろそろ自分自身を許して本当にやりたいことをやって行く時期に来ているような気がしている。 なぜ、この期に及んでそんなことを考えるのか、である。 それはもちろん先が見えて来たから「エイ、ヤッ!」の開き直りもある。 でも一番は、やりたいことをやって生きることが一番ストレス無く生きることが出来て、一番楽しいからである。 家族の介護、看病やご自身の病気で不自由を感じて

日記のような、びぼーろくのような(2023.2.22 早春の京都大原野)

2月22日、今年の『猫の日』は例年と違う感慨を持って京都大原野に向かった。 今季最後の寒波となるのであろうか、昨日舞い降りた早春の雪はまだ山肌に張り付いていた。 通称『竹ネット』、NPO法人 京都発・竹・流域環境ネット の主要メンバーが集まって来年度の新事業の打合せがあった。 行政の発注の放置竹林整備が続く。行政のさまざまな事業において竹林が障害となっている。それを伐開して産業廃棄物としての処分は時代遅れになっている。可能な限り共存しなければならない。そして、一度整備した竹

私の字が美しくない理由と文字から始まる私の考える流儀

子どもの頃から字を書くことが得意ではなかった。 文章を考えることは好きであったが、人様に読んでもらうために字を書くことに抵抗があった。 おおらかな母親のもとで育ったから、小学生時代に字を書くに当たって綺麗さを求められることなど無かった。 書き順すら覚えることは無く、いまだにこれはそのままである。 これには自分なりに原因となるものを突き止めている。 中学の兄の担当教諭である。今でもフルネームを憶えている。兄は中学で母の抵抗も虚しく『特殊学級』というとても特殊な名称のクラスに入

日本手拭いの効用

日本手拭いを持つようになって久しい。大学時代に風呂敷を持ち歩くようになっていたが、日本手拭いは社会人になってからである。 汗かきの私にはタオルやハンカチは子どもの頃からの必需品であった。 私の父は日曜日になるといつも白地にどこかの会社の名前の入った日本手拭いを腰にぶら下げ庭仕事や自分の作業小屋で片付けをしていた。父の姿を見てあまり格好がよいとは思えなかった。それなのに日本手拭いを使い出したのには理由があった。ゼネコンでの営業マン時代ハンカチを二枚いつもスーツのポケットに入れ

春の月

早春の夜道を一人歩いた。 桜の蕾はまだ固く、月あかりを受けるのは足元の黄色い菜の花だった。 終電をのがしてとぼとぼ歩いた川の土手。 酒に焼かれた喉は乾き、冷たいミネラルウォーターの自動販売機などまだ登場していなかった。 公園の水飲み場の蛇口をひねり一人冷たい水を飲んだ。 遊ぶ子も見守る親もいるはずはなく、公園の真ん中で一人水を飲んだ。 視線を感じ仰ぎ見るとオレンジ色の月が俺をジッと見ていた。 この先のすべてを知ったかのようなしたり顔で俺をジッと見ていた。 なにも言わず穏やかな

春に向け思う「未来を信じ、未来に生きる。」

かつて大学を卒業して、ゼネコンに入社した時に大学で経験した四年間をワンサイクルとして考えて四年後には辞めてステップアップを考えようと思ったこともあった。 しかし、世はバブルそんな悠長な考えが通用する時代ではなかった。 とにかく忙しかった。 残業も100時間で済むならありがたい日常だった。 休みはなく朝8時から建設現場では朝礼が始まり、夜職人さんが皆帰ったのを確認し、それから事務作業をして日付の変わる前に車で祇園の駐車場に向かい晩飯を食い、なんとなくクラブに行かねばならぬような

遠くない春

もう冬の寒さとは違う。 着込んでも着込んでも忍び込んでやって来る寒さはもういない。 これからやって来る春を予感させる冷たい空気は私にあの頃を思い出させる。 昭和56年3月に東京に出た。大学の入学式にはまだ早い3月の中頃にはもう東京にいた。その頃実家には母と私の二人きり、出ていくタイミングもよかったのである。西武線江古田駅南口から徒歩5分ほどの下宿だった。お宅の離れで下宿屋をやってるそこそこ大きなお宅だった。そこの一階の一室、陽の当たらない一番安い部屋、四畳半にミニキッチン付

梅田の夜はふけて

昨日は休みの日、昼から梅田に出かけて人と会った。 私より年上であるが活力のある先輩である。 技術屋でありながら文学歴史への造詣が深い。 読書会を主催してもう三十年も続けている。 仕事を通じてのお仲間が多く、そこで関係を深めて実際の仕事にもつなげている。 ご自宅まで何度か伺ったが奈良の有名な神社近くに50年以上も前に居を構え、お宅の前の小高い丘は古墳である。 貸農園で奥さんと野菜を作っている。 伺った帰りにはたくさんの野菜を土産で持たせてくれる。 お子さんは三人とも娘さん、二人

これも浮世の付き合い

誰にも口外していない私の休みを見計らったように、午後電話がやって来る。 「今日、時間ありませんか」と。 やらねばならぬこと、片づけなければならない仕事もあるくせに「おお、どこに行ったらいいんだ」と、口が勝手に動いている。 後輩からだから断わるわけにはいかない。 先輩ならば、支払いの心配が無いからもっと断らないかも知れない。 こんな付き合いがコロナが落ち着き始めてから増えている。 結局は自身で気付かねばならず、自身が持つ答えの再確認になるのだが、そこにたどり着くには話し相手が

それでも春はやって来る

「ねえねえ、菜の花って見たことある?」 「あるさ。毎年愛知の実家にこの時期帰ると佐奈川の土手が菜の花で埋ってるよ。」 冬の終わりかけから春に向かい咲き続ける菜の花はいつも不思議である。 月の明るい夜に照らし出される黄色は私を夢の世界に誘った。 酒の酔いか花での酔いか、はたまたそれは夢か現か幻の世界にいるのか、そのまま入水する人間の気持ちが分からないでもないような気がした。 「これでもう終わりだね。」でも、それはスタートの挨拶だった。 スミレの新生活はそこから始まった。 肌寒

春の訪れ

まだ二月、大阪はそれほど寒くはない。 冷たい雨も上がり、三寒四温で本当の春を迎えるのだろう。 歳とともに季節を意識出来るようになるのは、生きることに余裕が出来たということかも知れない。 それは経済的な話ではない、気持ちの問題である。 たとえどんなに貧乏をしようとも人生に良い意味での見切りをつけることが出来るようになり、ことある事の行き着く先が見通せるようになる。こんなことが生きるための余裕になる。 もう二年も前になるだろうか富山にいる大学合気道部の先輩のご家族から蕗の薹が贈

冬の雨にむせぶ夜

雨に濡れるのが嫌じゃない、稽古の帰りに濡れる夜。 大学入学前の魚市場の仲買での修行、金は肉体労働で稼ぐものだと信じてた。冬でも汗をかく力仕事は雨でもカッパは着なかった。 ずぶ濡れになっても風邪を引くことの無かった十代。 大学の合気道部は厳しかった。たとえ槍が降ろうとも稽古は休むことは出来なかった。傘をさす気力も無く濡れた身体が心地よく、それでも汗の染み込んだ学生服が臭かった二十代。 誰もが可愛いのは我が身だけ、定石の無い営業に悩み、取った仕事で上司に妬まれ、嬉し悲しく泣

日記のような、びぼーろくのような(2023.2.8京都大原野、霧雨にむせぶ春の予感)

昨日も仕事を終え、阪急京都線に飛び乗った。一車両に数人の乗客がパラパラと散らばる阪急電車もいいものである。車窓から見える紙芝居のような風景には過去私が携わってきた多くの思い出がある。NPO事務所の最寄り駅から自転車を借り走り出すと途中雨に降られた。霧雨である、二週間前には大雪の交通麻痺がウソのようである。決して冷たくない雨に濡れながら洛西ニュータウンを抜けた。 事務所に着くと倉庫の片づけを始めていた。都市計画法用途地域における指定用途以外の利用で全面撤去を求められていた倉庫

やっぱり野良がいいかな

これを目にする方に猫好き、動物好きな方が多いと思います。 我が家のブウニャンは三毛猫、19年生きて来たおばあちゃんです。 時々彼女を登場させてきましたが、ご存じの方はご存じのようにそろそろ天寿を全うするようです。 両親、知人、多くの人間の死に立ち会ってきましたが、この小さな生き物の最期を見守るのが一番辛いかも知れません。二年前に兄弟のトラ猫が我が家で最期を迎えました。じつは私の猫の看取り体験はその一匹だけです。子どもの頃から愛知の実家で何匹かの猫と生活をして来ましたが、そい