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遠くない春

もう冬の寒さとは違う。
着込んでも着込んでも忍び込んでやって来る寒さはもういない。
これからやって来る春を予感させる冷たい空気は私にあの頃を思い出させる。

昭和56年3月に東京に出た。大学の入学式にはまだ早い3月の中頃にはもう東京にいた。その頃実家には母と私の二人きり、出ていくタイミングもよかったのである。西武線江古田駅南口から徒歩5分ほどの下宿だった。お宅の離れで下宿屋をやってるそこそこ大きなお宅だった。そこの一階の一室、陽の当たらない一番安い部屋、四畳半にミニキッチン付き、トイレ共用で13,000円だった。そこで私の独り暮らしはスタートした。

東京に着いた初日だけ自室で飯を炊いた。運送屋が運び込んだ荷物を片付けるにも時間はかからなかった。場末のビジネスホテルに備え付けられるような小型の冷蔵庫と文机ぐらいしか大きな物はなかった。あとは布団と衣類、本ぐらいしかなかった。炊飯器は母が買ってくれた三合炊きの小さなヤツ。社会人になっても結婚するまで持ち歩いていた。

東京初日の晩だけはさすがに私も寂しかった。向いが総菜屋だった。親父が障害を持つ息子さんと二人で商売してた。体の大きないかつい顔の親父は頬に大きな向傷があり、どう見ても子どものために商売替えしたもと怖い親父にしか見えなかった。私より年上の息子さんはいつもグリルの前に立って魚を焼いていた。そこで白身の焼き魚とマカロニサラダを買った。金額を言われて想像以上に高く驚いた事だけを記憶に残している。炊いた飯を二合食べ、缶ビールを飲んで寝た。

それから二週間ほど昼は神田の古書街を歩き、夜は歌舞伎町の飲み屋におっかなびっくり足を運び、池袋の飲み屋に恐る恐る入ってみた。それまで魚屋の仲買で働き貯めた金をポケットに突っ込み東京の夜の盛り場をウロウロしたのである。
それからずっと部屋に帰るのは深夜、総菜屋が開いている時間に部屋に帰ることはなかった。午前中に前を通ると息子さんはいつもグリルの前に立っていた。その定位置を離れることは彼の人生まで変えてしまうのかと思えるほどその立ち位置はいつも同じで、その立ち姿は真剣であった。
二年間そこに住んだが、彼が焼いてくれた魚は一度きりしか食べることはなかった。それから大きなスーパーが進出し、商店街の個人店舗は様変わりしていった。総菜屋は無くなり、親父はもうこの世にはいないのであろうか。息子さんは魚を焼いて立ち続けた時間を今どう使っているのであろうか。

考えても詮無い事ではあるがこんな季節がやって来ると、そのなんでもなかった風景を思い出すのである。
息を吸い、息を吐く、こんな事をいちいち意識してやっている奴はいないであろう。それと同じなのである。彼が焼き場の前に立ち、魚を焼くことは私達が息をするのと同じだったのに違いない。そんな場所を失ってしまった彼は今何をしているのだろうか。気になるのである。

何かが起きそうな予感をさせる春間近の冷たい空気は私に思い出させる。


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