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春の訪れ

まだ二月、大阪はそれほど寒くはない。
冷たい雨も上がり、三寒四温で本当の春を迎えるのだろう。
歳とともに季節を意識出来るようになるのは、生きることに余裕が出来たということかも知れない。
それは経済的な話ではない、気持ちの問題である。
たとえどんなに貧乏をしようとも人生に良い意味での見切りをつけることが出来るようになり、ことある事の行き着く先が見通せるようになる。こんなことが生きるための余裕になる。

もう二年も前になるだろうか富山にいる大学合気道部の先輩のご家族から蕗の薹が贈られて来た。
見る見るうちに色の変わっていく蕗の薹を相手に、かつて食べた記憶の片隅に残る蕗味噌を慌てて作ったことがある。
忙しくとも、他にやらねばならぬ事があろうとも放り出してやらねばならぬ作業だった。

ひとつ年上のその先輩は同じ愛知県のご出身、当時歌舞伎町の飲み屋で生活費を稼ぎながら学生生活を送っていた。私はそこで手伝いもさせてもらい、よく飲みに連れて行ってもらった。障害者の兄を持つ私にとってはある意味本当の兄貴の様な先輩であった。息子が産まれるとすぐにその頃広告代理店を始めていた名古屋から祝いの積木を車に積んで夜京都まで駆けつけてくれた。

そんな先輩は現在富山で寝たきりである。長年の不摂生がたたったのである。その嫁さんは私の後輩である。私が4年の時の1年生であった。富山の大きな水産会社のお嬢さんだった。合気道部内での恋愛はご法度の不文律があったが、卒業生である監督が自ら破っていたから全く効力は無かった。

嫁の実家に引き取られた形であったが、その後嫁の実家も不幸が続き水産会社は廃業し、後輩である嫁は一人で頑張って小学生の二人の息子を育てていた。私は一度はサンダーバードで大阪から富山まで先輩の顔を見に行った。もう一度は車で。会社で朝「行って来るわ」といつものように行先も告げぬまま走った富山は遠かった。嫁の後輩は強くなり、お嬢から富山のおばさんになっていた。別れ際に二人で寿司を食い、車じゃ酒を飲むわけにもいかず時間を持たせるのが大変だった。泣かれもしたが、私の出来るのはそこまでである。冷たいようであるがそこまでである。

先輩は相変わらず寝たきり親父を続け、息子の一人は社会人になったようである。ある時から先輩とはネットで繋がり、先輩の命を受けて二年ほど俳句作りと俳句投稿サイトへの代理投句に付き合ったが私だけ途中でやめさせてもらった。今なお先輩は投句を続けてそれなりのレベルに到達しているようである。

二年前に送られてきた蕗の薹は後輩が息子二人と採ってきたものだと手紙に書かれていた。土筆もどっさり送られてきた。深く美しい富山湾とまだ純白の立山連峰を背景にした先輩たち家族の住む町の春は雪解けであまり美しいものではないのかも知れない。でも、そんな町に住む先輩たち一家にも必ず春はやって来る。そして、人生における春も必ずやって来るに違いない。

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