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日々考えることのはなし

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毎日考える何か、何かが引き金になり考える何かを綴ってみました
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2021年11月の記事一覧

冬のたのしみ

気がつけば『冬』といった感があります。 秋に生まれ色付き膨らんだ実が駅までの道すがら私の目を楽しませてくれます。 柿があり、蜜柑があり、レモンがあり、名も知らない実もたくさん色付いています。 誰かの目に止まり捕獲されその種を遠くまで運んでもらう種の保存の営みがそのきれいな色の中に隠されているのでしょう。 食欲の秋というのも、暑く食欲が減退した夏を終え涼しさで食欲が増す、ということもあるのでしょうが、本来は辛く厳しい冬を乗り越えるために食べて身体にエネルギーを貯め込む事がDN

かんがえるネコ

長くネコと生活してきた。 なんとはなしに物言わぬ彼ら彼女らの考えることは分かるような気がする。 人間の『生る』の基本は『食う』『寝る』『出す』である。 ネコも同じである、それを頭に入れておけば猫との会話も成り立つように思う。 ただ、長く付き合うとそれ以上の感情が伝わってくるのがわかる。 たとえば『好き』か『関心が無い』のどちらかが伝わってくる。 私の付き合ったネコたちからは『嫌い』という感情は伝わってこなかったように思う。 それは、彼ら、彼女らが私たち人間に頼らなければ生き

好天にめぐまれて

平日の休みの昨日、図書館まで歩いて行った。 寒くも暑くもなくちょどよい穏やかな空気に包まれて、いつまでもこんな気候が続いてくれればいい、と思った。 同時に、今の年齢くらいでずっと生きていけるのもいいかな、とも考えた。 若い頃のようににガサガサ仕事をすることもなく、好きな仕事だけやって生きて行く、まだ身体はまあまあ動き、大病はなく、精神的に隠居している感じだ。 両親が他界し、看病、介護から解放され、まだ気になる兄は残っているものの、両肩の荷はほぼ降りた。 こんなに気楽になる

ひとあめごとに寒さはまし

ひと雨ごとに寒さは増し、本当の冬はそこまで来ているようです。 駅まで行く道すがら、みなさんの格好はまちまち、なかにはダウンを着た人もいます。 寒いといってもまだそこまでではないような、この先どう過ごすのだろうと思ってしまいます。 まさか、冬眠するなんて事はないでしょうが。 霜月も中旬、師走が近づき思い返すと今年もいろんなことがありました。 年齢を重ねるとともに増えていく永遠の別れ、若かった頃とはその捉え方が変わってきているのが分かります。 若い頃はただひたすら悲しかったもの

雨のあさに

雨音で目が覚めました。 天気予報通りの雨です。 乾き切った大地にも空気にも湿り気を与えて今日は落ち着いた一日を送れることでしょう。 それにしてもなんだか知らぬ間にメリハリの無い秋が終わり、名ばかりの季節の冬に突入です。 やっとかき入れることが出来るようになった観光業や飲食業へせっかくですから天気にも味方になってもらいたいものです。 天気に左右される仕事はこの世の中に案外多いものです。 一次産業の農業、漁業、林業は分かりやすいです。 そして、建設業も、、、 設計事務所時代

のような記憶

夕方、我が家の愛猫ブウニャンをつれて近くの動物病院まで行った。 帰りにいつもと違う道を通った。 知らない道を通るのが好きである。 しかも黄昏時に自転車で走るのは不思議なことが起こりそうな予感がする。 辻々で通りをのぞき込み何物かの存在を確認するが何も無い。 なにかいればミケ猫ブウニャンが唸るであろう。 忍び寄る夕闇、人のいない通り、それだけで十分である。 何が出てきてもおかしくないのである。 そんななんとも説明しがたい情景が私の記憶のどこかにあるのだ。 そして、出会った公

やすみの深夜に歳をかんじる

最近の休日。 休日には家で朝と兼用の昼食をとり、ゆるゆると時間は流れ夕食の準備をして食後は夜の自在な時間を過ごすのが当たり前になった。 もともと家にいることは嫌いではなかった。 毎晩飲み歩いていたあの頃がウソのようである。 酒を飲むのはクセのものである。 以前のような仕事や仕事での人間関係のストレスが無くなったことが大きいとも思う。 酒は嫌いではないのだ。 でも、出来れば楽しい酒を飲みたい。 毎晩飲むのが当たり前になると何が楽しいのか分からなくなる。 休日、時々深夜一人

日記のような、びぼーろくのような

先日、帰りに京都駅で降り、旧知の先輩に誘われ久しぶりに古都京都の散策をした。 京都の紅葉はずいぶん目にしてきたが、最近のこの時期の紅葉感が分からない。 まだ極彩色の誰もが想像するような樹々の葉ではなかった。 焼けたようなお世辞にも美しいとは言えない赤黒い茶色の葉が目立った。 これから本格的な紅葉の時期を迎えるのであろうが、なんだかそんな予感をさせないところが以前と違うような気がした。 でも、そうでなければここに立ち続ける樹たちが可哀そうである。 70代と80代になる先輩お二

夢のつづき

列車は来た。 ホームに入って来たものの、ドアを開けることなくしばらくすると静かに動き出した。 その列車に若者たちと乗っていた代表はそこで初めて私に目を合わせてきた。 「いいんだ、それでいいんだ」と目で言っているのが分かった。 その列車を見送りなんとも不思議な気持ちでいるとまた列車が入って来た。 時間を確認するとそれが最終列車であった。 代表は「降りる権利を与える」とだけ言っていた。 先ほどの列車に私は乗る権利が無かったのである。 田舎のしかも最終列車である。

やすみにいどうする

残秋(ざんしゅう)なんて言葉があるのを知らなかった。 耳だけ澄ましていたらなんだか匂ってきそうな言葉である。 この時期匂うのは金木犀だけでよいように思う。 十一月一日の平日の昨日が休み。 とくに何かがあるわけではないが、一日が月曜日ってのは気分の良いものである。 のであるが、一日は明け方まで自室で仕事をして朝を迎えた。 この三年ほど商業用文章を書いている。 なぜかお付き合いは物流関係の会社ばかりである。 サラリーマン時代にトラックメーカーとの付き合いがあり関西で大型整備工

どんぐりのき

もうドングリを目にした。 この写真のドングリは『コナラ』であろう。 私たちが子どもの頃慣れ親しんでいたのは『クヌギ』の実、もっと丸く大きく、ズングリムックリしたドングリだった。 クヌギの実はカツラのような帽子をかぶり、コナラはベレー帽をかぶっている。 毎年見かけるドングリ、子どもの頃、何回見ても嬉しくその後どうするわけでもないのに、ビニール袋に一杯拾って帰った。 『コナラ』をひと回り細くした『シイ』の実もよく拾ってポケットに入れて歩いた。 『シイ』の実は生で食べれる。 栗の