メガネのデザイナーという僕の職業。
↓僕の事はこちらでも。
初対面の人に、
「私、メガネのデザイナーやってまして…」
というと、大抵の人は心の中でこう思ってるだろう。
「え、メガネやサングラスにデザイナーなんているんだ」
と。
ええ、いるんですよ。僕も思います、存在自体が謎な仕事ですよね。
というわけで、今回少し、僕のこの仕事について触れてみたいと思います。
まあ、自分のブランドを持ったのは、先述の
を参照にしていただけたら幸いです。
で、僕が今回話したいのは、このくそ怪しい
「メガネのデザイナー」
という職業は、
何してんだ?
どうやったらなれるんだ ?
そもそもそれで飯食えるの?
と言う話です。
少し、自分史を織り交ぜなければならなくなりましたので、ここに、ほんの一部を入れて綴っていきたいと思います。
1.始まりは母親に対する偽善と、自分に対する自己肯定
まず、僕の場合は、時は26歳に遡ります。
母親があと1年と余命宣告をされ、名古屋と東京で3年間勤めた商社を退社した僕は、「まあこれもタイミングか」と、地元である北陸のとある都市に戻り、母親と二人でマンションを借り、住み出しました。
実に18歳の時に実家出てから、おそらく最後になるであろう母との共同生活でした。
その中で、何をしていたかと言うと、
・実家を更地に戻す(生前に母が始末したがっていた)
・なんか色々な手続きを司法書士と。
・母の通院の送り迎え
等で、その他の時間は、自分の部屋でひたすらプレステ、DSをしていました。
ええ、僕は実はかなりのゲーム好きで、バリ島にゲームを持っていき、ひたすらしているくらい好きです。
時間があれば廃人に等しいくらいやりこむくらい好きなんです。
あとはひたすらギターを弾いたりしてましたねえ。無駄にスケールを覚えたり。
仕事は?
ええ、無職でした。
23歳から無駄に朝4時に出社し、昼3時に定時からの残業、帰りは20時ごろ。家の1階に入っていた台湾料理屋で飯を食べ、風呂に入ってバタン。
と言う生活を3年間していたら、流石に使う時間もなく、貯金が同世代では多いくらいには貯まっていました。
あとあれがありましたね、失業保険も。
なので別に金に困っていたわけでもないし、この時同世代がタイ、マレーシアなどの、いわゆる東南アジアスタートのバックパッカーを始めてたんですよ。「自分探しの旅」と言う言葉が、流行り出してた頃でしょうか。
おぼろげに「母親が死んだらちょっとやろうかな」と思っていたのです。そう、息子としては、
「余命1年の母を置いてどこかに仕事に行くのもなあ、ずっと片親で育ったので最後くらいは親孝行してやろう。」
そう言う気持ちでいたのです。
そのゲームをしてる息子の部屋に、ある日母親が入ってきて、僕にこう話し出しました。
「あんた、何もやることないの?私死ぬ前に息子の堕落した姿みたくないんですけど」
と。
これは効きましたね、ボディーブローでもなくて顔面ストレートです。ド直球です。
全ての母親の用事が終われば、ゲームをするか、ギター弾いてるか、飲みに行ってるか、飲みに行った先で捕まえた、どこの人とかよくわからない女がよく隣で寝てたりして、母親に
「あーあ、死ぬまでに孫見たかったなー」
と、嫌味のような本音をよく言われていました。
そう、僕が無職でいる事自体が、親としてみれば「親不孝」だったのです。
「何したらいいんだろうか」と、悩みました。
それを見つけるために、同世代は会社をやめ、旅をしてたりして、自分探しをしていた時に、僕は急遽余命1年の母のために、仕事を探さなければならなかったのです。
かと言って、地元の企業で働く気にはなりませんでした。
私が以前勤めていた「商社」と言うのは、まあざっくり簡単に言うと、日本ではかなり有名な優良企業で、田舎の会社に入ると言う事が、所謂「都落ち」に感じてたのです。
そもそも、その3年間、営業しかしてこなかった自分。
その3年間の営業で、まあまあの成績を納め、悔やまれ袖引きながらもやめた理由が、
「人と付き合いするのが嫌になった」
からなのです。ここの仕事の詳細は、いずれどこかのタイミングで書きます。
で、他に資格もあるかといえば、実は24の時に行政書士に受かってたりするのですが、その資格ってどこでどうしたら良いのかさっぱりわからず、とった理由も「カバチタレ!」をみて影響を受けて、なんとなく参考書を見て、なんとなく受けたら受かった。
と言う理由でしかなかったのと、その田舎でじゃあどこか見習いに行くか…と、実際探しましたが、田舎ではどこもイソ行政書士を雇うとこはなく。
あとは普通自動車免許。
あ〜じゃあトラックでも乗るか〜とも思いましたが、先がない。多分。(見ているトラックの方すいません)
となると、もう僕からは上記2つしかなかったんですよ。
資格という日本が定めた個々の能力値が。
いかに怠けた20代前半を送ってきたか。
この時身を持って知ることになりました。
求人誌を見て、頭を抱えている息子を見て、母から一言、
「あんた、なんか手に職つけたらどうかね?職人なら人とあまり話さなくてもいいでしょ。」
と。確かに。
職人、いいね!的な軽い感じで職人になろうとしていました。
職人…職人かあ。
ある日、メガネ会社で働く友人と酒を飲みながら、その話をしてたら、
「眼鏡屋の職人とかいいんじゃん?結構シビアな仕事だけど、合いそう」
と言ってきたのです。確かに、僕は中学時代から、おじさんの会社が眼鏡屋を経営していました。
土曜日、日曜日に手伝いに行くともらえる7千円が楽しみで、よく手伝っていて、何気にメガネの基礎知識は10代の6年間でそれなりにあったんですよね。
その友人に、
「ほう、今、眼鏡屋の中で、儲かる職人ポジションはどこ?」
「企画は職人じゃないなあ、サンプル、磨きの、どっちかだろうねえ。」
「磨きはちょっと嫌だな。汚れるし。サンプルいいな。うん。サンプルしよう。紹介してくれ」
と、その時に運命は回り出したのです。
そう、僕のメガネのデザイナー人生のスタートは、
別になりたくてなったわけでもなく、ただ母親に対する偽善と、自分に対する自己肯定でしかなかったのです。
そこから、矢沢永吉が大好きな職人さんとこに入り(ここ無給ですよ)、サンプルの作り方、削り方や、図面、線の引き方を教えてくれました。
音楽の話ばかりしながら、手はしっかり動いてた二人の息は結構合ったみたいです。イラレ(アイコというソフトがありますが、その時はそれ)をいじり出したのもこの時です。
半年後、そこが週の半分になり、前述した僕をこの業界に引きこんだ友人の会社に、週の半分、調子取りや出荷の商品チェック、挙句海外貿易のインボイス作成(商社の時に経験があったため)に、アルバイトとして行っていました。
その会社が、アパレルのサングラスのOEMをよく請け負っていたので、何気にその世界の人とも少しずつ繋がり、
「東京おいでよ〜」と、言われていて、漠然と
「母が死んだら東京に出よう」
と、この時くらいから、思い出しはじめました。
2.誰も追う事の無い 上・京・物・語
そして、時は28歳になる前、余命宣告1年と言われた母は、1年6ヶ月生き、死にました。
初七日を終えた僕はすぐに不動産屋に電話し、部屋を始末し、家を決め、夜行の高速バスに、無印の大きいカバンだけで乗り、東京に出ました。
まさに時は、28歳の時の自分の誕生日の事でした。
ここだけ聞くとなんとなく美談ですが、ここからが少し大変でした。
まず、仕事を頂かなければ、仕事はできません。
家賃4万3千円の転がり込んだシェアハウスで、朝は外資の運送屋でアルバイトとして文京区を周り、夜はサンプルを家で少しずつ作り、金曜に営業に原宿渋谷、千駄ヶ谷に出る、と言う生活が2年続きました。
そうこうしてるうちに、OEMの仕事が徐々に増え、
所謂
「企画屋さん」
「サンプルが自分で作れるOEM屋さん」
「東京にいる話が通じるメガネの企画屋」
として、人が人を紹介してくれ、昼の運送屋もやめれる程度に成長していったのです。
2010年頃、その時に、たまたまメガネの企画を、その会社の企画の方としてた時、そこの社長兼デザイナーが入ってきて、
「おい、服の企画できない?」
「はい、できますよ」
「頼むわ、来週までに5型」
と、逆らうことは下請けとしてNoなのですが、「できないことはできない」と、上や仕事相手には、忖度なくはっきり言う僕が受けた理由はまさにこれでした。
「アパレルきた!やった!」
と。
いや、全然経験もないし、どう指示書とか書いていいか?とかもわからなかったんですよ。
しかし、そんなもん、どうにかなるじゃないですか。
とにかく、
「受けてやれてダメだったら仕方ない、やらないよりはマシ。」
と言う感じでした。受けてから調べりゃいいわ。と。
そうこうして書いたその型のうち、3型が採用され、そのアパレルの企画を徐々に任されるようになりました。
そのうち、メガネのように徐々に「あいつは服もできるぞ」とう感じで横に広がっていき、気がつけば服がメガネの売り上げを上回るようになっていったのです。
3.企画屋?とデザイナー。そして会社と横領。
「企画て、なんですか?」
と思われるかと思います。
簡単に言うと、デザイナーが書いた絵を、立体にするまでの全ての仕事、と僕は思ってます。
線引きがあまりないんですよ。仕事の。
何でも屋に近かったかなあ。
とにかく、頼まれたことは人殺しと犯罪等以外はなんでもやった、と言うような勢いで、なんでも知らないままこなしていました。
そうしてるうちに法人化し、同じような人間が集まり、店を出し、会社のオリジナルブランドも作り、別会社の立ち上げも行い、と言う矢先でした。
8桁の横領が発生しました。そして事故。タクシー事故です。(こちらに書いてあります)
いや、横領はきつかったなあ。しかもそいつふつーにしてますからね。
4年かけて、決着ついた時にはもうダメでしたね。
まあそこの詳しい話はネタでまた。
で、その後、東南アジアに旅に行きます、そこで、メガネを作ってたり。ゲームをしたり、現地の会社でメガネを教えたりと。
また、そのときにいろいろと役員をしていた会社は退任し、保有していた株等は全て売却しました。
そこで、メガネに帰順し、METRONOMEの作り方を、見ていただければそうなんですが、その流れになっていきます。
4.レッドオーシャンとブルーオーシャンを勝手に見極めていた(つもり)
で、上記をここまで読んでいただいて、お前は他のメガネデザイナーと何が違うか?と言うことですが、
アパレルを通っている
と言うのが、決定的なデザインの違いです。
日本の眼鏡屋は、オプチカルデザイナー、サングラスデザイナーと昔は分けていました。(今もそうなのかな?ドメスのブランドと付き合いあまりないからわからん)
サングラスの企画の依頼が入ると、デザイン丸投げのODMのような仕事の場合、サングラスは全てアパレルの会社に投げてました。
それくらい、オプチカルとサングラスは別モンです。
なので、サングラスのデザインに近い仕事ができる、と言うのはぶっちゃけ重宝されます。
「オプチカル屋」
と言う分け方をすると、僕に対してはデザイナーみなさんいい人ですが、いざメガネとなり、じゃあ紹介しますね、とアパレルに紹介すると、確かに
「線が細かい。」
「遊びがない。」
「頭が固い。」
など、色々苦情が僕にきました。
仕方がないので結局僕がやることになります。
要は、アパレルやファッション的なのが作る(欲しがるもの)と、眼鏡屋が欲しがるものは全く別ものなのです。
ロンドンで出す時、「サングラスでかっこいいブランドで」と、ただ漠然としていましたが、今考えると、上記を肌で感じてたのかもしれません。
見たことあるような他と大差ないメガネなんて作ってたら、すぐに資本が大きい大手に潰されて終わります。
ここをこだわりました!と言っても、「で?」と言われる始末(わかる人にはわかるんですけれどね…)
じゃあ、見たことないようなことをすればいいんだ、と。
てな感じで、始めて2年半で、パリコレに出ました。
5.では、それでやっていけるのか?
普通にやってたら、食えますよ。
僕のように色々な事がなければ(ありすぎて笑うのでここはまた別の話、または有料じゃないとかけない話を参照に)
あと、3でも言ったように、日本のメガネデザイナーは、ほぼ並行して法人等で企画屋もやっています。
ここの収入が大半を占めるのではないでしょうか。
なので、企画とデザイナーの区別は僕の中では未だにつかないのです。
そして、4の言うように、そもそもメガネデザイナー自体がニッチなブルーオーシャンじゃないですか。海外出ればめっちゃ仕事あるし。
この記事見るまで聞いたことありましたか?
メガネデザイナー。
ないでしょ?それくらい、なんも認知されてない仕事、やりようではいくらでも伸び代しか感じませんよね。
ただたまに、STEADYの金子さんと飲みますが、酔った金子さんによく言われるのは
「岩本くんはデザイナーだね。0を1にする。企画っていうのはさ、1を8とか10にする仕事だよ。」
と言われますが、言い得て妙だな、と思います。
要は最低でもデザイナー1人、企画1人の2人仕事を、1人でできたら、もっと稼げますよね。
6.おっさんよ、僕は今もやってるよ。
僕の仕事って、こんな感じで始まり、今も続いています。
一つ、服の売り上げが上回った後にでも、何故、メガネを続けていたか?
それには理由があります。
母が死に、東京に出る前に、家を壊した後の、更地の譲渡の印鑑を押しに、その時解体をしてくれた知り合いのおじさんといきました。
そのおじさんに帰り道、「今メガネのサンプル屋してるんだよ」と言うと、おじさんはクラッチバック(セカンドバックと言ったほうがいいのか)から、封筒を出し、僕に渡し、こう言いました。
「そうか!よかったな!これやるから、約束してくれ。絶対それをやめるな!いいか!これ、返さなくていいから、それ続けろよ!」
と。封筒の中身は40万円。
なんで40万?
その時多分手元にあった金額でしょう。
ただ東京に出て2年間、なんども「もうやめよーかな」と思ったり、横領されて、なんども「あーもうやめた」と思った時も、その時を思い出したりしたんです。ある時は帰り道の言問通りで。ある時はベトナムの夜空で。
あの時、おじさんはふらふらしてた僕を見て、そう言う感じで言ったんでしょう、母が死んで、この子どうするんだろう、心の寄りしろはあるのか、そんなことを考えていたかまでは知りません。
一つ言えるのは、僕はその時の言葉と、その40万円のおかげで、今も僕、そして家庭があるのです。
おっさんよ、僕は今もやってるよ。
では。
14/10/2019 Bisei
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