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この世界の中で、その先へ歩いていくための物語。

このところ特に、ふと思い出してしまう過去が多いのは、今自分の身の回りに訪れてきたものや、やがていつかくる未来を受け入れるための覚悟が必要だからなのかもしれません。
自分にとっても誰にとっても、行く先も分からない「その先」に向けて進んでいこうとするとき、何が正解かも分からなくても歩んでいくために必要なのは、自分なりに確かに大切に思える「物語」なのでしょうから。

だからこれは、ただの物語。
たぶんほとんどの方にとっては、何を言っているのか伝わらないであろう物語。
でももしかしたら、誰かには届けることができるかもしれない物語。

この世界の中で、その先に向かって歩いてくための、ただそれだけの物語。
いつか誰かに、あるいは私自身にも、忘れてしまった時にはその時にもう一度、届けられればいいかもしれない、ただの物語。

幼い頃からお世話になっていた親戚の突然の訃報。
あまりにも思いがけないことに、自分の感情はどこにいるのだろうと、ふとした時に様々に蘇る思い出の中を巡っていました。

葬儀に参加するために立ち寄った場所は、ずいぶん昔、とあるアートイベントに参加するとき、父にも搬入を手伝ってもらった場所のすぐ近く。
その時のことを覚えているのか、父に尋ねてみたところ、来たことがあるのは覚えていると。
幼い頃から何度も訪れたことのある場所でもあるので、いつのことを思い出していたのかは、結局分かりませんでしたが、この場所にきて、父の中にもなにか思い起こされるものがあるのなら、それで何よりと思えたのでした。

過去はいつもそこにあるわけではないけれど、ふとした時に水面が揺らめくように、波間から現れてくるようなもの。
心の奥底に沈み込むように仕舞い込まれては、波立ち撹拌されて浮かび上がってくるもの。その場所の揺らめきが、呼び覚まさせるもの。誰かや何かが面影のようにまとっているものがさざめかせるもの。

波の間に現れてくるものに、いつでもどこでも出会えるわけではないけれど、もう思い出せないようなものも、辿り着き巡り会う方法を忘れてしまっているだけで、そこにはずっと刻まれている。

例え同じ時間、同じ場所にいたとしても、父も私も、誰もみなそれぞれ違う時間の中で、違う世界を見ている。でもその中にも、父の中に思い浮かぶいつかどこかに、私はいるかもしれない。私の知っている私とは違う別の私だったとしても、その中でも私も生きているかもしれない。たとえ私自身がいなくなったとしても、過去も、今も、未来も関係なく、いつかどこかに別の私があり続けるのかもしれない。
なぜか時折、見たことも聞いたことも会ったこともない誰だかわからない人のことを、とても親しかった人のように懐かしく思い出してしまうことがあるように。

形あるものはみないつか消えていく。
消えていってしまうものや失われてしまったもの、無くしてしまったものや、もう戻れないもののことを思うと、悲しみを感じてしまうけれど、本当に大切なものは消えはしない。それは形あるものではなく、形を持たないものだから。
形を持たないものは、ずっとありつづける。心の中にも、どこかにも、どこにでも。ありとあらゆる時、あらゆる場所に。

過去のことを思い出すときに、懐かしさを感じるとともに、ふとこぼれそうになる涙は、だから悲しさとはまた少し違うものなのかもしれません。
形のないものの中で、また再び巡り会えたことへの喜びの涙も、時にはそこにあるのかもしれません。

自分自身の中にいるもう一人の別の自分のようなものもまた、形を持っていないように。
それは別のもう一人の自分であると同時に自分でもなく、誰かでもなく何者でもなく何かでもなく、どこかでもない。
それは分けることのなにひとつない、境界線のない、どこまでもいつまでも繋がっている同じひとつの「すべて」なのだから。

そういうものを、私たちは形のある時間の中で作っているのかもしれない。
そういうものを育み、そういうものに育まれているのかもしれない。
すべて同じ一つの、その中で。

昔々、私は箱を作る仕事に携わっていました。
誰かから誰かへ、大事な品物を届けるために、その品物が壊れないように大切に包み込む箱。
その時の私は、人が本当に欲しがっているのは中身であって箱ではないと思ってしまったけれど、それはある意味では思い違いをしていたのかもしれません。

それから私は、誰かに欲しいと思ってもらえる物を作りたいと、何かを作り始めたけれど、それもまたある意味では間違いだったのでしょう。
人が本当に欲しいと思っているものは、その物そのものではなく、その物を使って出来上がるものだったから。

人もまた、箱や物と同じなのだと、私は私の中の波間に揺らめいていたときに、ただそうであるように思いました。
人が本当に欲しいと思っているものは、人にとって本当に大切に思えるものは、人という器の形ではなく、その中身であったり、人の形そのものではなく、人という形を使って出来上がる形のないものなのでしょうから。。

本当に大切なものは、形のないもの。
でもその形のない大切なものを生み出すために、形のあるものを必要とするのかもしれません。
大切なものを作るために道具が必要であったように、大切なものを運び届けるために、入れ物が必要であったように。

だから私たちは、形を生む。
私たち自身も、形をもって生まれてくるように。
形のないものから形あるものを通して、形のないものへと途切れることなく続いていく流れの中で、大切なものをその波の間に重ねていくために。

物も、人も、命あるものも、形あるものはみないつかは消えていく。
形のないところから生まれ、いつか形のないところへ還っていく。

人もまた安らぎより出でて、安らぎへと還っていく。
形のないところから生まれ、形のあるうちに形のないものを紡ぎ、形のないところから形あるものを生み出しては、形のあるもので生み出した形のないものを重ねていく。

波の合間に記憶を重ね刻めたなら、形あるものがなくなろうとも、形のないものはそこにずっとあり続けられる。過去も、今も、未来も。

形のないところから生まれて、形のないところへと還っていくその合間。つかの間の形ある間。
私はたまたま箱を作り、たまたま道具を作りフライパンを作ったように、私は今はたまたま私でした。私は箱であったとしてもフライパンであったとしても私であったとしても、どんなものでも誰であったとしても、すべて同じ。
たまたま、今この瞬間、この場所で、私を通した世界の中で、私は私であっただけで、別の時別の場所、別の誰かや何かの世界の中では、私は父であっても、叔父であっても、同じでした。いつかどこかで、母であったとしても、妻であったとしても、子どもであったとしても、やはり同じであるように。

同じ場所から生まれ、同じ場所に何かを重ね、同じ場所へ還っていく。
過去も、今も、未来もみな、波の合間に重ねられている、その場所に。
私たちは時間も空間もどこまでも境界線のない同じひとつのすべての中で、時折何かの形をまといながら形のないものを紡いではそこに重ねている。

ただそれだけの物語でも、ただそれだけのことで、私はここから旅立っていく人を、また会えるときまでと見送ることができる。
ただそれだけの物語で、もう旅立ってしまった人と、またいつかどこかで再会することができる。
ただそれだけのことで、やがていつか訪れるその時を、受け入れることができる。

それがこの世界の中で、その先に向けて歩いていくための、ただそれだけの物語。

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