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『アルファヴィル』(1965)とシュルレアリスム

 プールの淵に立つ死刑囚。執行者によって銃殺され、水に沈んでゆく死刑囚。女たちが一斉にプールへと飛び込んでゆく。ナイフを片手に。とどめを刺すように、彼女たちはナイフを死刑囚の体へ突き立ててゆく。それを見て拍手を浴びせる科学者。
 死刑囚はみな詩人であり、画家であり、つまりは芸術家であった。彼らは涙を流した、それだけの理由で死刑を宣告された。「当然だわ。彼らは涙を流した」女はただ淡々と語っていた。


僕がこの映画を知るきっかけ

 この映画を知ったきっかけは『攻殻機動隊 S.A.C.』だった。たしか3話でこの映画のフィルムかなんかが登場していた。見返す気が起きないのでうろ覚えだが、僕はこの回を見て、「多分この映画はアンドロイドが出てくるのだろう。いつか見てみたい」と思っていた。しかし、映画にはこんな女性型のアンドロイドは出てこなかった。見返す気が起きないと書いたが、アニメ自体はめちゃくちゃ面白いのでぜひ。

あらすじ

ジャン=ピエール・レオ。このシーンにしか登場しない。

 監督はジャン=リュック・ゴダール、言わずと知れた巨匠。アンナ・カリーナやジャン=ピエール・レオも出ている。
 舞台は未来の管理社会都市「アルファヴィル」。人工知能の「アルファ60」によって管理されている。主人公はハードボイルドに出てきそうなかっこいい諜報員、レミー・コーション。彼は行方不明の仲間を追ってアルファヴィルに潜入する。またアルファヴィルにてとある科学者を救出、または殺害するというミッションが課せられていた。科学者の娘ナターシャをアンナ・カリーナが演じている。

アンナ・カリーナ

 アンナ・カリーナが言うまでもなく美しい。ゴダールの『女と男のいる舗道』や『気狂いピエロ』などは見たが、この映画の彼女が一番美しいと思う。白黒の映像や無機質な建物の内装もあいまって、視覚的にも十分堪能できる映画だった。

『アルファヴィル』とシュルレアリスム(以下、鑑賞後に読むことを薦める)

 結局この映画はなんだったのか。僕にはこの映画を一言でまとめられるような言葉をもたない。会話は難しく、ところどころにちりばめられた無意味とも取れる様々なカットを全て読み解くことは不可能だった。だから、今回は芸術、という面でまとめてみたいと思う。

芸術と科学

管理社会の頂点に立つ者として真っ先に思い浮かべるアレ

 この映画は芸術と科学、二つの対立を描いている。科学側とは「アルファヴィル」を管理しているアルファ60やそれを開発した科学者たちのことである。それに対して芸術側とは外部から来た人間であるレミー・コーション、また囚われている芸術家たちである。
 死刑囚の死刑執行の場面では、科学者は彼らの行動を「非論理的行動」と読んでいる。ここからわかる通り、芸術とは非論理的で、科学は論理的なのだ。
 人間はどうやっても非論理的なものからは逃れられない。非論理的行動とはつまり、劇中で度々話題に挙がる「意識」、の影響下にある行動といったものだろう。人間は感情によって意思決定は大きく左右されるし、それによって論理的とはかけ離れた行動をとってしまう。
 科学側の代表であるアルファ60は論理的な判断しか行うことができない。つまり芸術家の持つ非論理的な思考を知ることができない。それが誤算であった。
 科学にはない、芸術のみが持つ側面もあるのだ。持論ではあるが、人間は人間という枠組みを超えて存在することができない以上、人間の意識を捉えていく芸術なしには豊かな生活は送れない、と思ったりもする。
 結局のところ、レミー・コーションの抱えていた「秘密」とはなんだったのか。愛、それとも死か。このあたりは正直なところ、まだわからない。もう一度見れば何かわかることがあるかもしれない。

シュルレアリスム

代表的なシュルレアリスト、サルバドール・ダリの『記憶の固執』

 ここまででは月並みの、ありふれた分析になってしまうだろう。そこで一つ、この映画のある場面から、芸術を考えてみたい。
 ある場面とは、レミー・コーションがナターシャに、ポール・エリュアールの『苦悩の首都』という詩集を読み聞かせるところだ。ポール・エリュアールとはフランスのシュルレアリストの詩人である。

"君の瞳は 誰も視線とは何かを知らなかった"
"気まぐれな国から戻ってきたのだ"
「本当に知らないかい?」
「何かを思い出すわ」

映画『アルファヴィル』より

 シュルレアリスムとは何か。詳しくは調べてもらいたいが、簡単に言えば人間の無意識をそのまま詩や絵画に浮かび上がらせたもの、だろう。

精神の純粋に自動的な働きを引き出し、またさまざまな実際的必要へのいっさいの屈従から解きはなたれた思考の、非打算的な活動を浮きあがらせる

「シュールレアリスム」イヴ・デュプレシス著・稲田三吉訳・文庫クセジュ

 それでは、はたしてこの場面の持つ意味とはなんだろうか。上記で引用した書籍からほかにも引用してみたい。

意識にのぼらない自我の状態への探索は、そのような探索の行為が、人間の概念や、人間の彼自身についての認識、ならびに人間がその一小部分にすぎないこの世界についての人間の認識などを、豊かにする

「シュールレアリスム」イヴ・デュプレシス著・稲田三吉訳・文庫クセジュ

 ナターシャはアルファヴィルへやってくる前の記憶をなくしていた。ところが、この記憶は彼女の無意識に潜んでおり、国の名前と風景を口に出すことで記憶を復元するに至る。無意識からかつての記憶を想起する。ポール・エリュアールの詩の朗読という、無意識への探索から彼女自身についての認識を意識上に引き出す行為は、このことを示唆してはいないだろうか。

まとめ

われわれは凡庸な人間にすぎないが、そのわれわれの師匠である彼らこそは、われわれがまだ科学に明けわたしていない、かずかずの泉で喉をうるおしている

「シュールレアリスム」イヴ・デュプレシス著・稲田三吉訳・文庫クセジュ

 シュルレアリスムは科学にもその泉を受け渡していないのであり、そこには無意識という神秘的な世界が広がっている。「無意識」や「意識」というものを科学の力で支配することはできない。そのため、芸術は人間を、科学では到達しえない場所まで導くことができるのではないだろうか。そういったことをこの映画は教えてくれる。

最後に

 書き物の練習として書いてみたが、あまりうまく書けなかった。しかし、とにかく書き上げて見ないと何も始まらないので書き上げた次第である。
 この文章が、映画を見る者にとっての新たな視点を作り出すことができていたら、幸いである。
 ちなみに、この映画はサブスクリプションで見放題の配信をしているところを見たことがない。アマゾンでレンタルができるようだ。

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