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記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
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これまでの記事で書き落としたことのまとめ,2022年12月2日


https://note.com/meta13c/n/n7575b6c0826b

この記事の注意点などを記しました。

ご指摘があれば、
@hg1543io5
のツイッターのアカウントでも、よろしくお願いします。
https://twitter.com/search?lang=ja&q=hg1543io5

注意

 これらの物語の重要な展開を明かします。

漫画

『キミのお金はどこに消えるのか』
『キミのお金はどこに消えるのか 令和サバイバル編』
『がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか』
『ラーメン発見伝』
『らーめん才遊記』
『らーめん再遊記』
『ドラゴンボール』
『ドラゴンボール超』
『ナニワ金融道』
『クレヨンしんちゃん』
『新・クレヨンしんちゃん』
『新・蒼太の包丁』
『「もう....働きたくないんです」冒険者なんか辞めてやる。今更、待遇を変えてやるからとお願いされてもお断りです。僕はぜーったい働きません。』
『新世紀エヴァンゲリオン ピコピコ中学生伝説』

テレビアニメ

『ドラゴンボール』
『ドラゴンボールZ』
『ドラゴンボール超』

アニメ映画

『ドラゴンボールZ 神と神』

テレビドラマ

『集団左遷‼︎』
『下町ロケット』(TBSドラマ版,第1、2期、『ヤタガラス特別編』)
『グランメゾン東京』
『半沢直樹』
『陸王』
『ノーサイド・ゲーム』
『A LIFE』
『相棒』
『アトムの童』
『臨場』

特撮テレビドラマ

『ウルトラマンメビウス』

はじめに

 これまで、記事にするには量が足りなく感じる内容の推測や意見をまとめて、1つの記事に繋げたことがあります。
 しかし今回は、あまり統一性のない内容になっています。

「権力に屈しないジャーナリスト」ならば、自分達もくじけるか

2022年12月2日閲覧

 『ウルトラマンメビウス』のジャーナリストのヒルカワと『相棒』の途中までの青木年男は、それぞれ権力や暴力を持つ防衛チームのGUYSやウルトラマン、警察やその杉下右京を目の敵にしていました。
 そこには、ジャーナリストや民間人として「強きをくじく」に当たる姿勢がないとは言えないのですが、そのときにずるいところがありました。「ルールや信頼から、自分個人に直接手出し出来ない強者である防衛チームやウルトラマンや警察ばかりくじいて、批判すると本気で自分を攻撃しかねない侵略宇宙人のエンペラ星人やその配下のヤプールや暴力団はくじこうとしない」という共通点です。
 青木の方は途中から、自分に手出し出来そうな犯罪者にも挑発的になっていますが。
 また、ジャーナリストが「強き者をくじく」を本気で貫きたいならば、『相棒』の美和子のように、自分の上司や企業にも逆らうべきときがあるのではないか、とも記しました。
 その意味では、『臨場』ドラマ版のあるジャーナリストが特徴的でした。
 ここでは、ある新聞記事がきっかけで、自分の親子関係についての科学的な可能性に気付いた人間が、身内の犯罪に隠避を重ねる行いをしてしまいました。
 それについて、直接それを書いたわけではないものの同じ企業の新聞記者は、「うちの記事がきっかけですから」、「他にも似たような事件はあるかもしれない」と、さらに記事にする責任感を示していました。
 直接的に記事が悪いとは言えないときですが、記事にする責任感があるのは、「自分の企業や先輩の問題も扱う」本当の意味でのジャーナリストだと考えます。

「悪の敵」は「敵同士の争い」で顕著になるか

 「正義の味方ではなく悪の敵」という表現がネットにあるのを見たのですが、『ドラゴンボール超』の破壊神はそのような存在かもしれないと考えています。
 破壊神ビルスは、それまでの『ドラゴンボール』シリーズの神々のように人間を助けることはあまりせず、むしろ生命や惑星を「破壊」するのが仕事ですが、「悪人を批判する、攻撃する」という視点はあります。
 「サイヤ人は侵略ばかりするろくでなしだから上司のフリーザに滅ぼさせる」といった主張をするものの、フリーザを善人とは認識していません。
 「悪人同士の争いを利用する」というのは、「悪の敵」とも言えるでしょう。

 宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』では、「1990年代に、何が正しいことか分からなくなったのを経ているゼロ年代は、何が正しいかは勝った者が暫定的に決める」とあります。
 その例として、『仮面ライダー龍騎』で仮面ライダー同士が、個人的な欲も含めて争う「サヴァイブ」を挙げています。
 私は、ウルトラシリーズで「怪獣が悪とは限らない」、「怪獣は人間の環境破壊による被害者であることもある」といった主張をするときに、「怪獣同士が自然に争うのだから、被害者と加害者の両方になることもある」、「怪獣だからこそ環境を破壊することもある」という違和感を持ったことがあります。
 その意味で、「人間や主人公の敵同士が争って当たり前」の状況では、「悪の敵」が増えて、悪行や不道徳なところを止めるのが難しいかもしれません。
 ウルトラシリーズに比べて、主人公の敵同士の争いが示されやすい『ドラゴンボール』シリーズでは、それが分かりやすいかもしれません。
 

「人はみないつか死ぬ」に「お前が言うな」は反論として成立しない

 私は、物語で主人公達が悪役を批判するときに、同じ問題が主人公達にもないか、主人公達に甘い二重基準がないか、と考えることがあります。
 それは「お前が言うな」という表現が多いのですが、それが通用しない場合もあります。
 たとえば、人間が「人間はみないつか死ぬ」というのは単なる事実の表現であり、それに「お前が言うな」というのは何の反論にもならないでしょう。
 たとえば、経済の議論で、市場原理主義者が「自由市場は確かに不安定だが、超長期的には安定する」と言ったときに、国家による市場への介入を必要とした経済学者のケインズは「超長期的には我々は必ず死ぬ」と反論したそうです。
 これこそ、「話し手と対象の両方に通じる問題を事実として述べた」ことであり、「お前が言うな」は反論になりません。

2022年12月2日閲覧

 『ピコピコ中学生伝説』で、「ギャルゲーで恋愛を学んで心の壁を破る」というミサトの企画に、主人公で内向的なシンジが「ギャルゲーはむしろ現実に恋愛が苦手な人間がするのではないか」と疑問を呈していましたが、ミサトは「やめなさい、それ以上はまずいわよ。ただじゃおかれないわよ。あと、お前が言うな、的な反感もある」と主張しています。
 シンジの「ギャルゲーは本物の恋愛に向かない人間がする」というのは事実寄りの推測でしょうが、それに「本物の恋愛が出来ない劣った人間がするギャルゲーなどをしても意味がない」といった意見寄りの推測をミサトは感じ取り、「お前もその劣った人間のうちだろう」と返したのでしょう。
 しかし、それは「人はみないつか死ぬ」と同じ、単なる事実寄りの推測ならば「お前が言うな」は通用しない順当な論理だったと考えます。

資本主義以外の縁故主義の問題

2022年12月2日閲覧

 『「もう....働きたくないんです」冒険者なんか辞めてやる。今更、待遇を変えてやるからとお願いされてもお断りです。僕はぜーったい働きません。』では、ファンタジー世界において、ブラック企業のようなギルドで働き、一見弱そうな能力で実は「縁の下の力持ち」だったのを評価されていないのに耐えられなくなったエクスが、「もう働かない」と宣言したところから始まります。
 そこから、エクスに支えられていたのに気付かず見下していた人間は制裁を受け、気付いて認めていた人間は少しずつ幸福になっていきます。
 ここから、私の知る幾つかの経済の知識や倫理に繋げていきます。
 まず、資本主義を肯定する木村貴さんは、『ナニワ金融道』などで、資本主義ではなく、身内を不公平に優遇する縁故主義が悪いと主張しています。
 『ぜーったい働きません。』でも、資本主義の競争だけが悪いのではなく、権力を持ったギルマスや子爵が仕事を独占しているところがあります。

需要と供給による賃金の問題をどう解釈するか

 しかし、井上純一さんの漫画『キミのお金はどこに消えるのか』シリーズを読みますと、やはり資本主義にも問題があると考えられます。
 自由市場では格差が拡大して、特に現代日本のデフレによって円など貨幣の価値が上がるため、低所得者の消費が落ち込んでしまいます。すると需要が不足して、景気が悪くなります。供給側が努力しても、供給過多では給料が下がってしまいます。
 木村さんは「マルクスの労働価値説は間違いである。需要と供給で賃金は左右されるのだから、労働だけで価値は決まらない」と主張していますが、その「事実寄りの推測」は正しくても、「だからこそ需要を増やして供給側の賃金を上げるべきだ」という「意見寄りの推測」に結び付いていないのでしょう。

低所得者の消費こそ現代日本の経済に必要である

 『ぜーったい働きません。』でも、ギルドの受付係がエクスに「エクスさんが戻って来たら、貧乏人の依頼は断りますから利益が上がります」と笑顔で話していました。
 これが勘違いで、低所得者の消費を増やして景気を良くすることで、全体の経済を活性化させる工夫が必要です。
 『がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか』では、トマ・ピケティさんの主張として、「弱者を叩けば経済は上手くいく」という推測が、右翼の「弱者の権利の軽視」、左翼の「経済の軽視」という、大多数の望みから離れた意見を生み出すとあります。
 『ぜーったい働きません。』でも、「貧乏人の依頼を受けない方が世の中の経済のためになる」という勘違いが起きているようです。
 ギルマスや子爵などの、法律、文化などの権力による縁故主義は確かに資本主義や自由競争とは異なる、経済を悪くする問題ですが、自由競争で格差が広がるのも、低所得者の消費を減らすことで需要不足や不景気になり、供給過多で「頑張るほど給料が下がる」現象を引き起こしてしまいます。

需要と供給を踏まえた好景気の理想

 『キミのお金はどこに消えるのか』シリーズでは、「消費が増えないと経済は良くならない。それを何度でも言いたい」と主張していますが、それは現代の日本人の多くがその理論を分かっていないためでしょう。
 『キミのお金はどこに消えるのか』での経済の理想を、監修の飯田泰之さんの書籍も踏まえて書きます。
 「人間社会は放置しても年間2%ほど効率を上げることが出来るので、年間2%ほどのインフレで経済成長しないと供給が余ってしまうため、程良いインフレが必要である。今の日本はデフレで、格差も広がり、不安なあまりに高所得者の貯蓄にお金が偏っている。そのため消費が落ち込んで、需要不足で供給側がいくら努力しても、顧客が要らないという以上は給料が下がってしまう。低所得者の消費を増やすために、低所得者ほど負担の大きい逆累進性のある消費税は下げなければならない」となります。

賃金低下という損害に利益を伴わせる正当化

 市場原理を重視する木村さんは、「デフレの方が物価も下がるし、労働者の最低賃金の規制は撤廃した方が失業率も下がる。高所得者が不安になって貯蓄をするのは当たり前だ」と書いていますが、それはデフレの中で都合の良い側面ばかり書いていると言えます。
 そもそも、労働者の賃金が下がれば失業率も下がるというのは、需要不足などで、ある企業の労働者全体に配る賃金の合計自体が減っているという根本的な問題を無視して、「賃金が下がる」という致命的な損害に、「失業しにくい」という利益だけ示している論理が強引です。

パターナリズムと「自己責任」の両立

2022年12月2日閲覧

 私は、相手の意思に反して善意で強制するパターナリズム、「余計なお世話」、「おせっかい」と言われる論理が、一見それと逆の「自己責任」に繋がる例を幾つか挙げました。
 その原因として、「相手の意思に反して利益を一方的に与える」、「頼まれなくても、あるいは断られても助ける」パターナリズムが、その利益に損害も伴っていた場合は、議論や時間などの不足で、損害に関しては「頼まれても助けない」「自己責任」に繋がってしまう可能性を考えています。
 「賃金が低い方が失業率も低いから良いではないか」という論理は、経営者が労働者に損害を一方的に与えて、それに利益が伴っているからと正当化、美化する都合の良い論理だと考えます。

 

姫によるパターナリズムと「自己責任」の危険性

 ただ、『ぜーったい働きません。』で、主人公を助けている王族の姫にも、パターナリズムが「自己責任」に繋がってしまう危険性があります。
 「成り上がり貴族」らしい子爵の「掟破り」がきっかけでエクスの存在を知った姫が、その独特の能力を評価して、仕事を辞めたエクスに「大魔導師」としての高い地位を陰で与えました。
 しかし、それを本人に連絡せず、これを書いている時点のs-12までで、エクスは周りの勘違いに乗ったつもりなだけで、信じてはいません。
 一方的な善意を隠すというのは、日本の「不言実行」などにも通じる、ある種の美徳かもしれませんし、自分の高い地位にも気付かないのも、ある種の「謙遜」などの美徳かもしれません。
 しかし、問題は、それが裏目に出たときです。
 仮にエクスがこの高い地位の「大魔道師」の職業で、利益や権利を受け取るとしても、それに何らかの損害や義務が伴っていれば、エクスはそれを知らないため、害を増やしてしまう危険性があります。
 たとえば、「大魔道師」達の集まりに定期的に出席しないと、あるいは何らかの手続きをしないと法に触れてしまう、などの規則があれば、王族といえどもかばえないでしょう。また、「大魔導師」達はエクスが経歴を詐称していると勘違いしており、現在は動揺しているだけですが、それでエクスが犯罪者のように悪評を立てられる危険性があります。
 一方的に、連絡もせずに「利益」を与えるパターナリズムは、それが裏目に出て損害を出したときに、連絡や議論が欠けるために、より悲惨な状態になる可能性があります。
 パターナリズムの語源が「父」であり、ここでは年少女性であるため分かりにくくなっていますが、姫がエクスにした行いの根本もパターナリズムです。エクスは姫が「お金持ちのお嬢さん」だとは認識しているものの、王族とは、王国の名前である名字を聞いても気付かなかったようです。
 このパターナリズムが裏目に出て損害を出した場合、姫は「自分は確かに連絡不足であったが、王族としての名字などは明かしたのだから、彼も大魔導師に認められたことに気付くべきだった。その義務や損害に気付いて準備しなかった彼にも責任がある」として、「自己責任」の主張をするかもしれません。
 『ぜーったい働きません。』にも、年少女性による逆説的な「連絡不足なまま高い地位を与える」パターナリズムが、「自己責任」に繋がってしまう危険性があります。

主人公の気付かない、同種の被害者を助けられるか

 また、『ぜーったい働きません。』では、主人公のエクスが一見弱そうで高い能力やその働きを周りに評価してもらえない苦しみが重視されますが、エクス自身も自分の能力に気付いていないところがあります。
 たとえば、エクスの魔法は、弱い代わりに持続時間が長く、エネルギー源などが不明でかなり特殊らしいのですが、それが未知の危険を引き起こす可能性があります。王族の執事も「これを兵器に転用する気か?」と焦っていますし。
 氷の魔法を弱い代わりに持続させて涼を取る器具にするのは、魔法を電池のようにして扇風機を作るような仕組みかもしれません。そう科学的に解釈すれば、確かに危険性もあります。現実でも古い電池が火災などの元になるとも言われますし。
 また、エクスの魔法は持続時間が長いとしても、途中で解除は出来ないらしく、それはそれで危険です。エクスも、普段と異なる人間に自分の魔法を使って、「バフ(強化)魔法はやばかった?」と危惧したときはありますが。
 周りだけでなく、エクス自身も、「周りと異なる、予想外の自分の能力」が、「予想外の利益」だけでなく「予想外の損害」を与えてしまう危険性に気付くべきだとも言えるかもしれません。
 また、エクスは王族から莫大な給料を受け取れる機会を、「金貨を1つだけ選ぶ」と勘違いしていましたが、やがて全て受け取れる可能性が示唆されています。
 私個人としては、エクスが自分の能力に気付かないように、他にも埋もれている能力の持ち主がいるかもしれないので、やがてエクスも自分のように埋もれている人間を探して手助けすることに、莫大な金銭を使ってほしいと考えています。
 「貧しい人間は自分のことしか考えないで、周りも困っていることに気付かないでいる」といった「無知」、「残忍化」の主張は時折みられますが、エクスはやがて財産や地位を得れば、自分のように困っている人間に尽くすような人間になってほしいと、期待を今からしております。

使用価値と交換価値と『ラーメン発見伝』

 経済学で、使用価値と交換価値の違いが重要だとされます。
 リンゴで言えば、使用価値は味などの客観的なもの、交換価値は顧客に交換してもらえるか、買ってもらえるかの主観的なもののようです。
 この差異を重視しているものの、体系立てた理論になっていると言い切れないのが『ラーメン発見伝』シリーズでした。
 この作品では、ラーメンという味の芸術性や、メディアによる情報や娯楽性なども重視される分野での様々な主張があります。
 高級食材である鮎を使った高品質と言える味の
「淡口らあめん」を出す『らあめん清流房』の芹沢は、それがアッサリし過ぎていて受け入れられず、鮎を使ってはいるもののそれがほとんど分からないコッテリ味の「濃口らあめん」で儲けていました。
 鮎の情報だけ知って、「濃口は鮎の香りがたまらない」のように言っている大半の客の言動に苛立っていた芹沢は「奴等は情報を食っている。俺は味を分かってくれるお客のためだけにラーメン屋をしている。あとは高級食材の経費を運んで来る働きバチみたいなものだ」と断言していました。
 芹沢に「お前はラーメン好きとして味を分かってはいるが、プロとしては、客に合わせる、現実をわきまえることを分かっていない」と言われた藤本は、そのあとしばらくして、コッテリしつつも鮎の風味を活かしたラーメンを作りました。「俺は情報を食わせてしまうのも仕方がないと思いますが、芹沢さんみたいに嘘は食わせたくありません。鮎の風味を生かしたこれなら、今まで濃口を食べていた人にも、淡口の良さを分かってもらえるかもしれない」と、理想を実現する戦略を考えています。

使用価値と理想と交換価値と現実

 つまり、鮎の食材を活かした味という使用価値と、店を支えるだけの客に受け入れられる魅力を持つ交換価値が異なることが、『ラーメン発見伝』における悩みなのです。

 次作『らーめん才遊記』でも、濃口らあめんに関する競争で、藤本の案以上に鮎の風味を活かしたコッテリ味のラーメンを開発した芹沢は、「この味だけで勝てるとは限らない。良いものなら売れるという考えは捨てろ」と部下に話しています。

交換価値は「精神論」や「感情論」ではなく経済理論である

 ある意味では、現代日本の不景気も、供給側が使用価値を上げる努力をしても、需要の量の不足や、需要に合った供給がないといったすれ違いから、交換価値が上がらずに購入や取引が減って、結果的に賃金が下がってしまうことに繋がっているかもしれません。
 それを「お客の気持ちを考えろ」といった感情論や精神論に結び付けてしまうと、経済理論が情の問題と混乱してしまうかもしれません。
 たとえば『クレヨンしんちゃん』では、しんのすけの不真面目な言動が、父親のひろしなどの仕事を妨害することもありますが、予想外な形で取引相手の感情に訴えかけて逆に取引を成功させることもあります。
 これは、どちらかと言えば客観的な労働の使用価値を下げるしんのすけの行いが、かえって主観的な交換価値を上げる逆説的な現象だと言えます。しかし、それは経済理論でも充分に説明出来るものであり、「人生は教科書通りではない」、「勉強では分からないことがある」といった精神論の類ではありません。

「見た目がおいしくない」

 『新・蒼太の包丁』では、使用価値と交換価値の差異を、説明するのに苦慮しているらしい様子があります。
 パソコンなどの高い技術や作業効率を上げる能力の高い久米田が、パソコンなどに詳しくない取引相手に理解されずに、なかなか契約を取れずにいました。彼女は「他の相手を探そう」、「勤め先を変えよう」といった対策を考えていました。
 しかし、上司が「ボウズ(成果なし)が続くな。仕事というのは、指導されたものにいつかはそれぞれのカラーが付くもので、それがコツというものかもしれない。ほんの小さなそれに気付くことで、結果が違って来るんだ」と話していました。
 「カラー」というのは分かりにくいカタカナ用語ですが、つまるところ「交換価値」だとみられます。作業効率やパソコンの技術の使用価値は高くても、年配の取引相手など、その能力を理解し切れない人間に分かりやすく伝える交換価値が低いので、努力に「交換してもらえるか」の「結果」が付いて来ないのです。
 主人公の料理人の蒼太が、意図せずにそれを示していました。
 蒼太が、炊いたご飯によるおにぎりを、何故か放置していたのに疑問を抱いた女性に対して、「粗熱を取って、おにぎりの見た目を良くするんです。こうしないと見た目が美味しくないんです」と表現していました。
 それにより、久米田はパソコンなどに詳しくない人間向けのマニュアルを作るようになりました。

使用価値と交換価値の違いを無自覚に教える

 マルクスの『資本論』では、使用価値を「読み書きが出来るか」、交換価値を「顔の良さ」にたとえています。他にも、商品の交換を恋愛にたとえているところがあります。
 池上彰さんによると、マルクスは口が悪いところがあったらしく、経済や仕事を恋愛にたとえるのも、今ならばセクハラなどに当たるかもしれません。
 しかし、重要なのは、「読み書き」というどちらかといえば中身、客観的な量や程度だけでなく、外面や主観的な魅力を整える必要があるというのは、あらゆる仕事に通じることでしょう。
 使用価値が分かりにくい能力、それこそ同じ能力がなければ分からないかもしれない能力ならば、交換価値は自分とは異なる、別の商品を持つ人間に伝えるための分かりやすい能力なのです。その「分かりやすい外面的な特徴」をおそらく『新・蒼太の包丁』では「カラー」と言いたかったのでしょう。
 そして、通常は、味は「使用価値」ですが、使用価値と交換価値が繋がるところとして、「見た目がおいしくない」という表現は言い得て妙だと考えます。
 蒼太は店の客の悩みや人間関係を、いつの間にか料理で改善するところがありますが、「使用価値と交換価値の違い」を自覚せずに客に教えたという意味では、彼自身は経済学の知識がないかもしれないので、「経済学を教える行動としての使用価値は低いが、意図せずにそれを示している交換価値の高い行動をする人間」かもしれません。
 しんのすけよりは遥かに礼儀正しいのですが、その無自覚に人を助けるところは、蒼太も使用価値と交換価値の違いを示しているかもしれません。
 もちろん蒼太の料理人としての労働の使用価値が低いわけではないのですが、「使用価値と交換価値の違いを教える」という経済の知識としては低いでしょう。

端材の使用価値と交換価値

 『いま生きる「資本論」』では、佐藤優さんはマルクスの主張の間違いの1つとして、「2分の1着の上着」という表現を取り上げています。「それは着られないので、1着の上着の半分の値段でも売れないだろう」と批判しているのです。
 しかし、そういった端材などが、パンの耳や野菜の余りなどにより、使用価値は量以下でも、未知の交換価値をもたらすこともあるでしょう。
 ジャンクアートというのも、使用価値の少ない材料から交換価値を生み出すわけですし。
 たとえば、半分に割った果物や野菜は中身が分かりやすいので、かえって半分の量以上に売れるかもしれません。逆に交換価値が半分より下がる危険性もあり、それは顧客の主観次第ではありますが。
 『ラーメン発見伝』によれば、ラーメンは元々貧しい時代に余った野菜クズや鶏ガラを使ったものだったので、これも使用価値と交換価値、そして「中途半端な量」の魅力にも繋がるかもしれません。

古さを楽しむ「交換価値」

 『アトムの童』でも、ゲーム会社で、玩具の経験のある人間が、おまけの商品のプラモデルを作る余裕のないときに、あえて塗るのは買い手にさせることで海外のマニアを楽しませて、評価を上げていました。これこそ、まさに使用価値を下げて交換価値を逆説的に上げる例です。
 しかし、そのゲーム企業の若者は、自分のゲームを外国人の企業などに説明するときに、身だしなみなどに注意するように言われて、「大事なのはゲームの中身でしょう」という趣旨の反論をしていました。つまり、ゲームの使用価値と、交換価値の区別がまだ付いていないのです。
 そもそも、今作で重視されるゲームには、いわゆる「レトロ」、「懐古」、古さを楽しむ要素があるので、それは使用価値を下げて交換価値を上げる要素もみられます。
 『らーめん才遊記』でも、「古い店を掃除することで、レトロな店として客を引きつけられる」と話しています。「レトロ」というカタカナの表現が分かりにくいのですが、つまるところ「古さを楽しむ」、「懐古」ということでしょう。

使用価値と交換価値の対をなす労働者

 ただ、続編の『らーめん再遊記』での芹沢の言動を見ますと、芹沢もまだ使用価値と交換価値の差異に気付き切れていないところがみられます。
 ラーメンの創作の技術は高いものの、創作よりも一般受けする日常的なラーメンが重視されるチェーン店に勤めていた加納が、「創作ラーメンを重視するべきだ」と主張して社長に「左遷」されたのを「こんな店は辞める」と独立したことについてです。
 加納やその恋人の南などは、ラーメンの創作の個性や味を上げる使用価値の高い労働は出来るのですが、加納が独立した店がなかなか売れないのを楽観視する、交換価値を上げる努力は足りないところがありました。
 一方社長によって加納の後任になった鹿内は、創作ラーメンなどをゼロから作り出す労働の使用価値は、部下の南より低いと社長にも言われていましたが、創作ラーメンを「アレンジ」したり加納のいた店の清潔度などを改善したりと、売上を伸ばす交換価値は高い労働を行っていました。
 社長は加納が創作ラーメンにばかりこだわり、一般の顧客に受けない、つまり労働の交換価値が低いことを問題視して、「左遷」したのはそれを教えるためでした。説明が足りなかったのは認めていますが。
 ある意味で、別の場所に職場を移すというのが、利益と損害を伴うために、「利益を一方的に与えて説明しない」パターナリズムが、損害だけに注目されて「助けてくれない」から「この企業は自己責任の世界だ」と誤解されたかもしれません。

使用価値と交換価値としてずれたたとえ

 しかし、これは私が使用価値と交換価値の理論から、『ラーメン発見伝』シリーズを解釈しただけで、劇中でこの2単語はまだ使われていないようです。
 芹沢が加納に問題点を教えたときのたとえから、使用価値と交換価値の違いが見えなくなっている可能性があります。
 芹沢は、「野球で高校までは成功したのに、周りにもてはやされて努力を途中でやめて腕も上がらず、野球で失敗してもスターだった頃の感情で頭を下げるなどが出来ずに没落した人間がいる」というたとえで、その時点の加納が「チェーン店で褒められていた頃の小さな勲章にとらわれている」と主張しています。
 しかしこのたとえは、加納の努力し実現しているところを無視しています。
 加納は創作ラーメンという労働の使用価値は上げ続けており、交換価値が低いとは言っても、一部のマニアや芹沢に味では評価されています。
 問題なのは、定期的に店に来て売上に貢献出来る顧客にとって魅力的な食事量などの交換価値が低いことでした。
 ところが芹沢のたとえは、途中まで使用価値と交換価値が高いものの、舞い上がり過ぎて礼儀の観点からも腕の観点からも悪くなった人間なので、使用価値も交換価値も低くなっている人間です。
 これでは、加納の使用価値を上げている実績のたとえとしてやや不適切です。
 また、加納は確かに売上を伸ばすための交換価値は低いものの、極端に不作法ではなく、彼なりに鹿内の「手柄」を褒めているところもあり、たとえの野球で失敗した人間ほどでもありません。
 芹沢はラーメン職人としての労働の使用価値も、売上を伸ばす経営などの交換価値も高いため、どちらかだけが高い人間と両方低い人間の区別が難しいようです。
 ちなみに、『ぜーったい働きません。』のエクスも、一見弱い魔法しか使えませんが、魔物を倒す使用価値も、王族を娯楽で喜ばせる交換価値も高い労働をしています。
 使用価値と交換価値の区別が、まだ芹沢は完全には出来ていないようです。
 芹沢は「それなりの大学を出ていた」という経歴が『再遊記』に登場しており、小林秀雄などの難解な理論も自分なりに解釈していましたが、まだ経済の基本である使用価値と交換価値の違いは理解し切れていないようです。

 

資本の種類と使用価値と交換価値と日曜劇場

 日曜劇場では、商人資本と産業資本と金融資本の差異、使用価値と交換価値の差異が重要かもしれません。
 比較的温厚な人間が多い『新・蒼太の包丁』やコミカルな『クレヨンしんちゃん』、限定された料理人の場所が多い『ラーメン発見伝』シリーズと異なり、幅広く苛烈な人間関係も描きやすい日曜劇場での、経済学の知識が重要だと考えます。
 日曜劇場は、元々製造業を重視していたらしいところがあります。
 『半沢直樹』では、ネジ工場の息子の半沢直樹が、自分達を切り捨てた銀行を変えるために銀行員になったものの、「しょせん我々は金貸しですよ」と、金融そのものを悪く見ているところがあります。
 借りた金を返さないのが悪いのは当然ですが、借金そのものが悪いのではなく、返せる借金が経済を豊かにすると、『キミのお金はどこに消えるのか』にもあります。
 この漫画では、商人、産業、金融の3種の資本の差異までは説明していませんが、佐藤優さんの書籍には幾つかあります。

『半沢直樹』の理想は産業資本のものである

 『半沢直樹』で、直樹の母親が、直樹の妻に「日本は資源がないから輸入してものを作って来た」という経済の論理を説明していますが、それは工業を昔ながらの美徳としているところが見られます。土地に恵まれない弱者である日本人が努力して、つまり輸入した材料を加工して価値を上げて、儲けるのが正しい経済であるという論理は、産業資本のものです。そのため、金融資本の「金貸し」の論理を、半沢は心のどこかで否定している様子があります。
 また、佐藤優さんによると、イスラーム社会では、今でも商人資本の論理が重視されて、マルクスの労働価値説は通用しにくいそうです。
 商人資本は、『キミのお金はどこに消えるのか』のマルクスへの批判における、「価値の源は、価値観の差異であり、リンゴよりお金が欲しい人と逆の人の差異で交換が成り立つ」という論理に適合しやすいと言えます。
 体系立てた理論は知らないのですが、商人資本はイスラーム、産業資本はキリスト教のプロテスタンティズム、金融資本はユダヤ教に合っている可能性があります。
 プロテスタンティズムの倹約の精神が、かえって意図せずに資本主義、おそらく産業資本を推し進めたとマックス・ヴェーバーは書いていますから、半沢は無自覚にプロテスタンティズムの感情があるのかもしれません。

需要を上げるために供給が努力する展開

 また、『ルーズヴェルト・ゲーム』で、カメラ企業の人間が、「小型化したけれども、それだけでは役に立たない部品」を「カメラではなくスマホに導入したらどうか」と提案して、新しい売り方を考えていました。
 つまり、小型化という使用価値を上げても、それが交換価値に繋がるための場所や手段を探す必要があるのです。
 しかし日曜劇場では、ネットで『下町ロケット』や『陸王』の主人公の経営する企業はブラックではないか、という主張もみられます。
 これも私は、使用価値と交換価値のずれから考えています。
 現代日本では需要が落ち込んでいるので、供給過多になって、「努力して使用価値を上げても交換、取引や購入をしてもらえずに賃金が下がる」という流れがあるようです。
 『キミのお金はどこに消えるのか』シリーズでは、「消費が増えないと、現場が幾ら頑張っても生産性は上がらない」と強く主張しています。
 日曜劇場では、交換してもらえないのを「社員の努力が足りないからだ」とみなしているふしがあります。
 実際に、『半沢直樹』第2期や『グランメゾン東京』や『A LIFE』では、主人公などが部下や後輩に「努力が足りない」という趣旨のことを言います。『A LIFE』は医療の物語なので、経済の論理として複雑ですが。
 そこで、『ルーズヴェルト・ゲーム』のように、新しい需要を生み出すための工夫、いわゆる「イノベーション」で交換価値を上げるのが美徳の努力とされるようですが、そのような工夫も含めて「供給側が頑張れ」と言う前に、現代日本では需要を増やすべきなのでしょう。
 『キミのお金はどこに消えるのか』では、「教育や医療に国のお金を使う方が、それによる消費が増えて景気は良くなる」、「消費が増えないとイノベーションも生まれない」と述べていますし。

日曜劇場の「空回り」する危険性

 需要が不足している現代日本で、供給側が新しい需要を増やす工夫をしろという強引な論理を、日曜劇場では押し通しているふしがあります。
 それが「ブラック企業」の論理にも通じてしまうかもしれません。
 『ノーサイド・ゲーム』では、第1話で、社会人ラグビーの実績を上げられず、周りからの評価も低いラグビー部に、その管理の立場へと左遷された主人公は「ラグビーに興味のない人間も引きつけるほど勝たなければならない」と主張しています。
 『集団左遷‼︎』でも、左遷されかけている銀行支店長が、行員や息子に「頑張れ」と言い過ぎて辟易とされている様子があります。
 つまり、「供給だけに頑張れと要求して、需要が増えない」現代日本の状況特有の空回りが描かれているかもしれません。それで上手くいく場合もあるかもしれませんが。

営業は、産業資本と商人資本の境界ではないか

 なお、『下町ロケット』では、部品の製造企業で、作る部署と営業の部署の対立が描かれます。
 営業の人間が「あんた達が夢とか言って作ったものを売るために、こちらは必死に相手を探している」と憤ることがあります。
 また、弁護士としては珍しく工業の知識のある人間に、主人公は自分達の働きを評価してもらえて喜んだことがあります。逆にその前の、工業の知識の少ない弁護士とは対立してしまいました。
 おそらく、『下町ロケット』の主人公達は工業の側面での使用価値を上げる「努力」は重視したものの、その交換価値を上げる必要のある営業や、分かりやすく伝える必要のある弁護士の世界には通用しにくい感情があるのでしょう。
 もしかすると、工業の企業でも営業は、製造の産業資本より「売れる場所を探す」商人資本の論理が合いやすく、それはプロテスタンティズムとイスラームの差異にも繋がるかもしれません。

 

商人資本の「亡霊」が産業資本の中に復活する

 ただ、岩井克人さんの書籍によれば、土地によって価値の差異があるものを交換するだけで儲ける商人の論理は、アダム・スミスの労働価値説で批判されたものの、それによる産業の資本主義でも、価値の差異の利用自体はあるとされます。
 というのも、そもそも産業による資本主義でも、農村などで余った労働力を持つ人間が都市の工業で働くのが重要だったので、同じ労働力でも農村より都市の方が高く売れるという意味では、価値の差異を利用するのは商人にも通じるそうです。これを「ヴェニスの商人の亡霊」と説明しています。
 その意味では、産業資本にも「労働こそ価値の絶対的な基準」だと言いつつ、「労働という商品の価値が高い土地を選ぶ」商人の論理はあるようです。
 逆に商人資本でも、自分の商品が高く売れる場所を探すことが「努力」なのであり、労働価値説を否定しても、「努力」していないわけではないのでしょう。

都会と田舎の使用価値と交換価値と需要と供給の問題

 『らーめん再遊記』では、都会でラーメン店を繁盛させていたものの、様々な経緯で地方では失敗した宇崎が、自分では「安易」だと考えた「豚汁ラーメン」を地方で売ることに成功しました。
 通常は都会の方が田舎よりも商品が高く売れやすいかもしれませんが、その需要の偏りを利用して、田舎で意外性を持った交換価値を生み出せる可能性があります。
 それは、産業資本で労働力という商品が高く売れる土地にばかり富が集中していたのを、田舎だからこそ売れるものがあるという論理で逆転させる驚きがありました。
 『らーめん再遊記』では、芹沢と対立していた、ラーメンの腕は低いものの中華料理、特にチャーハンの腕は高い板倉に、芹沢は複雑な経緯もありつつ、ラーメンがありふれていて売れにくい土地で特殊なチャーハンを売って需要を生み出す提案をしました。
 使用価値と交換価値の差異を明確には分かっていないものの、やはり芹沢の行動や思考は、経済学の参考になります。

まとめ

 使用価値と交換価値などの話題が長くなりましたが、今回は統一された議題はなかったようです。節操のない長文でしたが、ここまで読んでくださった方はありがとうございます。

参考にした物語

井上純一/著,飯田泰之/監修,2018,『キミのお金はどこに消えるのか』,KADOKAWA
井上純一/著,アル・シャード/企画協力,2019,『キミのお金はどこに消えるのか 令和サバイバル編』,KADOKAWA
井上純一(著),アル・シャード(監修),2021,『がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか』,KADOKAWA
久部緑郎(作),河合単(画),2002-2009(発行期間),『ラーメン発見伝』,小学館(出版社)
久部緑郎(作),河合単(画),2010-2014(発行期間),『らーめん才遊記』,小学館(出版社)
久部緑郎(原作),河合単(作画),2020-(未完),『らーめん再遊記』,小学館
鳥山明,1985-1995(発行期間),『ドラゴンボール』,集英社(出版社)
鳥山明(原作),とよたろう(作画),2016-(発行期間,未完),『ドラゴンボール超』,集英社(出版社)
青木雄二,1990-1996,『ナニワ金融道』,講談社
臼井儀人,1992-2010(発行期間),『クレヨンしんちゃん』,双葉社(出版社)
臼井儀人&UYスタジオ,2012-(発行期間,未完),『新クレヨンしんちゃん』,双葉社(出版社)
末田雄一郎(原作),本庄敬(漫画),2018-(未完),『新・蒼太の包丁』,ぶんか社
原作/縛炎,漫画/村上メイシ,2022-(未完),『「もう....働きたくないんです」冒険者なんか辞めてやる。今更、待遇を変えてやるからとお願いされてもお断りです。僕はぜーったい働きません。』,スクウェア・エニックス
河田雄志×行徒,カラー(原作),2014-2018,『新世紀エヴァンゲリオン ピコピコ中学生伝説』,KADOKAWA

テレビアニメ

内山正幸ほか(作画監督),上田芳裕ほか(演出),井上敏樹ほか(脚本),西尾大介ほか(シリーズディレクター),1986-1989,『ドラゴンボール』,フジテレビ系列
清水賢治(フジテレビプロデューサー),松井亜弥ほか(脚本),西尾大介(シリーズディレクター),小山高生(シリーズ構成),鳥山明(原作),1989-1996,『ドラゴンボールZ』,フジテレビ系列(放映局)
大野勉ほか(作画監督),冨岡淳広ほか(脚本),畑野森生ほか(シリーズディレクター),鳥山明(原作),2015-2018,『ドラゴンボール超』,フジテレビ系列(放映局)

アニメ映画

細田雅弘(監督),渡辺雄介(脚本),鳥山明(原作),2013年3月30日(公開日),『ドラゴンボールZ 神と神』,東映(配給)

テレビドラマ

飯田和孝(プロデュース),いずみ吉紘(脚本),江波戸哲夫(原作),2019,『集団左遷‼︎』,TBS系列(放映局)
伊與田英徳ほか(プロデュース),塚原あゆ子ほか(演出),黒岩勉ほか(脚本),2019,『グランメゾン東京』,TBS系列
伊與田英徳ほか(プロデューサー),八津弘幸ほか(脚本),池井戸潤(原作),2015,『下町ロケット』,TBS系列(放映局)
伊與田英徳ほか(プロデューサー),丑尾健太郎(脚本),池井戸潤(原作),2018,『下町ロケット』,TBS系列(放映局)
伊與田英徳ほか(プロデューサー),丑尾健太郎(脚本),池井戸潤(原作),2019,『下町ロケット ヤタガラス 特別編』,TBS系列(放映局)
伊與田英徳ほか(プロデューサー),八津弘幸(脚本),2013,『半沢直樹』,TBS系列(放映局)
伊與田英徳ほか(プロデューサー),福澤克雄ほか(演出),丑尾健太郎ほか(脚本),2020,『半沢直樹』,TBS系列
伊與田英徳ほか(プロデューサー),八津弘幸(脚本),池井戸潤(原作),2017,『陸王』,TBS系列(放映局)
伊與田英徳ほか(プロデューサー),丑尾健太郎ほか(脚本),池井戸潤(原作),2019,『ノーサイド・ゲーム』,TBS系列(放映局)
瀬戸口克陽ほか(プロデュース),平川雄一朗ほか(演出),橋部敦子ほか(脚本),2017,『A LIFE』,TBS系列
橋本一ほか(監督),真野勝成ほか(脚本),2000年6月3日-(放映期間,未完),『相棒』,テレビ朝日系列(放送)
岡本伸吾ほか(演出),中井芳彦ほか(プロデュース),神森万里江(脚本),2022-(未完),『アトムの童』,TBS系列
橋本一ほか(監督),坂田義和ほか(脚本),2009-2010,『臨場』,テレビ朝日系列(放映局)

特撮テレビドラマ

村石宏實ほか(監督),小林雄次ほか(脚本) ,2006 -2007 (放映期間),『ウルトラマンメビウス』,TBS系列(放映局)

参考文献

岩井克人,1985,『ヴェニスの商人の資本論』,筑摩書房
岩井克人,1992,『ヴェニスの商人の資本論』,ちくま学芸文庫
岩井克人,2000,『二十一世紀の資本主義論』,筑摩書房
佐藤優,2016,『資本主義の極意』,NHK出版新書
大石雄爾,2000,『労働価値論の挑戦』,大月書店
飯田泰之/著,雨宮処凛/著,2012,『脱貧困の経済学』,筑摩書房
マルクス(著),エンゲルス(編),向坂逸郎(訳),1969,『資本論 1』,岩波文庫マルクス(著),エンゲルス(編),向坂逸郎(訳),1969,『資本論 2』,岩波文庫
池上彰,佐藤優,2015,『希望の資本論 私たちは資本主義の限界にどう向き合うか』,朝日新聞出版
木村貴,2022,『反資本主義が日本を滅ぼす』,コスミック出版
渡辺昭,1995,『資本の世界史 経済政策綱領』,税務経理協会
池上彰,2009,『高校生から分かる「資本論」』,ホーム社
佐藤優,2014,『いま生きる「資本論」』,新潮社
那須耕介(編著),橋本努(編著),2020,『ナッジ!? 自由でおせっかいなリバタリアン・パターナリズム』,勁草書房
沢登俊雄,1997,『現代社会とパターナリズム』,ゆみる出版
マックス・ヴェーバー(著),大塚久雄(訳),1989,『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』,岩波文庫
宇野常寛,2011,『ゼロ年代の想像力』,ハヤカワ書房


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