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「自由」は「ある不自由と逆の不自由」なのか「どちらでも良い」なのかの議論

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注意


これらの物語の重要な展開を明かします。

特撮テレビドラマ

『ウルトラマンコスモス』

小説

『プラチナデータ』
『神獣の都』(小林泰三)

テレビドラマ

『家族のカタチ』
『相棒』
『ゴーストママ捜査線』

テレビアニメ

『NARUTO 疾風伝』
『遊戯王デュエルモンスターズ』

はじめに

 以前、「自由」と「平等」は両立するのか、という考察を、マルクス経済学の「等価交換」の間違いから広げて行いました。

2023年10月22日閲覧



 今回は、「自由」の定義を、かなり前の「出来る」と「出来ない」の表裏一体の性質から捉え直そうと試みます。


2023年10月22日閲覧

女性に関する例

 まず、「自由」に関して、「出来る」というものが、「出来ない」の対義語として設定したときに、むしろ「そうせざるを得ない」のを「自由」と履き違える可能性がないか、と私は考えました。
 ここでは、「イスラム教徒の女性の服装」、「母子手帳あるいは親子手帳」、「女性のヒール」の3例を示します。
 私はジェンダーの問題にあまり詳しくありませんが、そのジェンダーの根底の「女性の自由」の議論の中で、「自由」の定義がこじれている可能性もあると考えたので、ここに記します。

「宗教からの自由」と「宗教への自由」

 まず、『自由の壁』において、現代のフランスなどでは、「宗教からの自由」と「宗教を信じる自由」の間での揺れ動きがあるとされました。
 イスラム教徒の女性の権利の侵害だとされるスカーフなどの服装について、「宗教からの自由」を重視するフランスでは、公共施設でその服装を禁じる法律が制定されたものの、それが逆に「イスラム教を信じたい人間の権利の侵害」になっていないか、という議論があるのです。
 女性をイスラム教徒から解放するのか、イスラム教徒を西洋のルールから解放するのか、で「自由」の衝突があり、「リベラルのジレンマ」とされるそうです。
 しかしこれを私は、「イスラム教を積極的に信じる、キリスト教徒などからみれば不自由でも信じたい女性もいるかもしれないのだから、スカーフなどをしてもしなくても良い、親などが強制するのを禁じるだけで良いのではないか」と考えました。フランスの現場もイスラム社会の現場も詳しくありませんが。
 つまり、「スカーフをしなくて良い」が文字通り「自由」ならば、「しても良い」と、どちらの選択も尊重すべきではないか、というのが私の感想なのです。

「付いて来る義務」も「来ない義務」もない

 たとえば、『相棒』で杉下右京の実質的に2人目の「相棒」だとされる神戸は「理屈っぽい」とされる傾向もあるようですが、窓際部署の特命係に配属されたばかりのとき、その右京に「僕に付いて来る義務はありませんよ」と言われて、「付いて来ない義務もありませんよね」という趣旨の反論をしています。つまり、「付いて来い」でも「付いて来るな」でもなく、「どちらでも良い」が「義務のない状態」のはずなのです。どちらかと言えば右京は神戸に最初同行してほしくなかったらしく、シーズン8終盤で、神戸が配属された原因も含めて打ち解けたようでしたし。
 しかし、神戸の「付いて来るか来ないか決める」、「2択の保障」こそ、本来の文字通りの「自由」のはずです。
 これがイスラム教徒の女性にも当てはまるはずだ、と私は考えました。宗教にも法律にも詳しくありませんが。

母子手帳と親子手帳

 続いて、母子手帳と親子手帳の呼称についてです。
 子供を出産する上で母親に役目が偏るのは避けられないことですが、父親も協力すべきだという議論で、これまで「母子手帳」とされたものを、「親子手帳」に変えるべきという主張もあるそうです。
 しかし、夫婦間にもプライバシーがあるという反論もみられます。
 これも私は、「父親から離れて育てたい母親」と、「父親に協力してほしい母親」の双方の自由を尊重して、「母親がどちらか選んで良い」制度にすべきだと考えます。
 父親が暴力を振るう、父親が母子以外に対してでも犯罪などをしている、父親が周りに知られたくない経歴や出自を持つ、そもそも望まない妊娠だったなどなら、その父親から離れて暮らして母親が育てる(1人でとは限りませんが)意味での「母子手帳」を選ばせて、むしろ父親に協力してほしい、してもらわなければ困るという母親ならば「親子手帳」を選ばせるような制度が必要だと考えます。
 ここでこじれるのは、どちらかがぜいたくだ、わがままだ、といった議論になる可能性です。
 父親から離れて暮らしたい母親にしてみれば、父親と共に育てたい母親は間違って感じるのかもしれませんが、逆もまた然りでしょう。どちらが正しいという問題ではなく、そもそもそれぞれの選択に任せるべきです。

「子供がほしい」、「ほしくない」両方の自由

 『家族のカタチ』では、家族と距離を置きたい、結婚や子育てを煩わしく感じて「1人の時間」を重視する30代男性が、「子供はほしくない」と言って、同年代のある女性に「あなたみたいな人間がいるから子供がいないと成熟してないみたいに言われるのよ」と突然言われています。
 その女性は子供がほしくても妊娠しにくい体質だったのですが、それこそ「自分のほしい自由」と「逆の自由」を認めないところに論理のこじれがあります。
 「子供がほしくても妊娠出来ない」人間に不妊治療や養子などの「自由」は必要で、法的にも助けられるべきだと考えますが、「子供がほしくない」人間の「自由」、逆向きの自由も尊重されるべきだと考えます。
 結末では、この男女が結婚して、「1人の時間も必要だ」という男性の言葉も曖昧に扱われていますが、「両方の自由」という観点を扱う論理が、日本に限らず、社会には欠けている印象があります。
 母子手帳と親子手帳の場合でもです。

高いヒールの靴を履きたくない女性も履きたい女性もいるのではないか

 また、これは自信がありませんが、女性に高いヒールの靴を履かせる職場への批判が、一時期「kutoo」というハッシュタグで有名になっていました。
 しかし、それは職場が女性に高いヒールを強制してはいけないという話であり、高いヒールの靴を履きたい女性もいるかもしれませんし、その女性が周りに強制しないならば、その「高いヒールを履く女性」を裏切り者のようには扱うべきでないと考えました。
 つまるところ、これも「高いヒールの靴は履かなくても履いても良い。本人次第だ」と主張すべきではないかと。

嫌気性だから出来ること、出来ないこと

 ここまでは法律と宗教や性の問題でしたが、生物学でたとえると少し明確になるかもしれません。
 人間はある程度の酸素濃度でなければ生きられませんが、それよりはるかに低い濃度でも「生きられる」生物は多々います。嫌気性と呼ばれます。しかし嫌気性の場合は、逆に人間側の「生きられる」酸素濃度に耐えられない場合も多いのです。
 そもそも二十億年以上前に、シアノバクテリアによる光合成までは地球の大気の酸素濃度は低く、光合成の酸素で耐えられずに滅んだ生物がいます。逆に人間はその生物の好む低い酸素濃度には耐えられません。
 しかし、どちらの酸素濃度にも耐えられる、通性嫌気性生物というのもいるそうです。
 法律にもその3種類のような区別が必要そうです。

『裸の王様』の愚か者だからこそ見えるもの

 また、「出来る」、「出来ない」の論理では、『裸の王様』も重要です。
 「愚か者には見えない服」を、愚か者には見えないのであれば、その「愚か者」だからこそ服が透けて見えるはずです。
 特撮の映像であれば、あるものを合成で景色から取り除いたときに、その部分が真っ白や真っ黒になるのか、その向こうの景色が見えて完全に透明に見えるのか、という議論も必要でしょう。
 つまり、「服が見える」、「出来る」からこそ「その向こうが見えない」、「出来ない」ことがあり、「服が見えない」、「出来ない愚か者」だからこそ「その向こうが見える」、「出来る」ことが、論理的には起こり得るはずです。
 これを、「愚か者」を「劣っている」とばかり決め付けて、逆説的に「出来る」ことを結果的に見落とす例は多いかもしれません。
 たとえば、怪獣保護を重視する『ウルトラマンコスモス』では、「大人になると見えない」、「純粋な子供にしか見えない」とされる怪獣ヤマワラワがいましたが、この怪獣が現れても本当に見えない子供もいたようです。しかし、その子供は、そのヤマワラワの向こうの景色が見えなくなる違和感を持っていないので、逆に「見える子供」やその視点を共有する視聴者に見えない景色が見えているはずです。
 また、ヤマワラワに宇宙からのウイルスのカオスヘッダーが取り憑いている可能性も指摘されましたが、コスモスは怪獣の体内のカオスヘッダーを透視出来たようです。しかし、逆説的に、ヤマワラワが見えないからこそ、その体内のカオスヘッダーだけ透けて見える大人もいたかもしれません。それを「見えない大人が劣っている」という感情や意見だけで、「見えないから見えるものもある」という二面性を見落とす論理の勢いがあるかもしれません。

蛇の手足の二面性

 「自由」の定義も、「出来る」と置き換えれば、「どちらでも良い」なのか、「逆のことを出来ない」なのかを考え直す必要がありそうです。
 『自由の壁』でも、三浦梅園という思想家が、「蛇は手足がなくて不自由だと人間は思うかもしれないが、蛇にとっては手足のある人間の方が不自由に思えるかもしれない」と書いたとあります。「出来るから出来ないことがあり、出来ないから出来ることがある」というのは、『裸の王様』や『コスモス』のヤマワラワにも言えることだとみられます。

神秘性による見落とし

 たとえば、物語の「触れない」、「見えない」神秘的、オカルティックな存在にも、その公平さが論理として足りないところがみられます。
 『プラチナデータ』原作で、遺伝子の研究で人間の全てが分かると主張してその捜査を絶対視する研究者の神楽が、あるとき奇妙な少女のスズランに出会い、何故か彼女が監視カメラに映らないことを指摘して、「光学的にしかみられない機械なんて簡単にごまかせる」と言われています。
 しかし、そのスズランは客観的な痕跡が一切ないとあとから分かり、そもそも神楽の幻覚のような存在でした。神楽の人を見下したような態度の分身とも思えます。
 しかし、その見下したような態度だからこそ、「出来るからこそ出来ないことがある」という蛇の手足や『裸の王様』のような論理が勢いで欠けています。
 幻覚だからこそスズランには「機械に映らない」ことが「出来る」のですが、逆に「映る」ことも「出来ない」のであり、神楽以外の人間に見せることも「出来ない」のです。科学を軽視する物語では、宗教的、神秘的な存在が上回るようで、逆にその存在だからこそ出来ないことがあるという当たり前の論理が欠けることがあります。「出来るからこそ出来ないことがある」論理的な事実の認識が、意外なことに、多くの物語では欠けています。

「すり抜けられる」からこそ「触れない」ことを見落とす

 幽霊がものをすり抜けて人間から干渉出来ない、攻撃も拘束も出来ないという物語は多いのですが、逆に幽霊から触ることも出来ないことで幽霊が困る物語も多少はあります。
 ドラマ『ゴーストママ捜査線』では、警察官の女性が幽霊となり、遺した息子が心配で見守るものの、基本的に触れないので助けられない、犯罪などを見ても止めるのも難しいという悩みが描かれます。幽霊になっても現世の人間の行動や価値観を見下さない優しさなどがあり、なおかつ警察官としての誠実さや論理性も維持しているこの主人公達だからこそ、「すり抜けが出来るからこそ触ることが出来ない」公平さを受け止めています。
 『遊戯王』アニメ版では、古代エジプトを模した世界に紛れ込み幽霊のようにすり抜ける体質になった主人公達が、ある施設の情報を調べようとしたとき、何故かその施設の壁だけ最初はすり抜けられず、しばらくして侵入出来るようになったものの、それはそれで内部の本などに触れないジレンマに悩みました。
 また、戦闘を重視する『NARUTO』では、攻撃をすり抜ける忍者のトビが終盤の強敵でしたが、トビの方もすり抜けながらでは触れないので、トビから攻撃するときのカウンターでなら反撃出来ると多くの相手は工夫する余地がありました。
 さらに、このような物語のすり抜けるキャラクターの多くは、地面には何故か触れるので、落とし穴や地面の変形などでどうなるか気になります。
 論理性を重視する小林泰三さんの小説であり、『NARUTO』に近いものを感じる『神獣の都』では、たいていの攻撃をすり抜ける神獣が、地面を歩いたり空中を羽ばたいたりする瞬間なら「擦り抜けモード」が解除される設定でした。
 ちなみに、『NARUTO』のトビの正体の人物は地面からのすり抜けはともかく、最終的に重力の術に苦しんでいます。
 また、『空想科学読本2』にありますが、光学的には、周りから見えない、光の屈折もしない体ならば、そもそもその体の持ち主も光を屈折させられず透過してしまい何も周りを見られません。この論理では、幽霊が周りを見ることも出来なくなりますが。
 先述した「光学」、「機械」を軽視するスズランも、逆に神楽の知らない情報、周りの人間の知る情報などを知ることも出来ない、「出来るから出来ないこと」という二面性を見落としていたのです。
 なお、現実の宇宙論で、電気的に反応せず重力にだけ反応するらしい暗黒物質が想定されていますが、仮に暗黒物質で構成された生命やロボットがいても、通常の物質とはお互いに触れないはずです。

「光学からの自由」と「光学への自由」

 先ほどの法律の論理と組み合わせれば、「光学から自由」ならば、「光学への自由」、つまり姿を消すだけでなく表すことも出来なければならず、その2択が真の自由のはずです。
 『ゴーストママ捜査線』の幽霊などは、自分達の状態について、「大多数の存在の不自由と、逆の不自由があるだけで、どちらの状態も選べるわけではない、自由ではない」という両面の論理が見えています。

まとめ

 法律、生物学、物理学などの観点から、「真の自由」とは「どちらも出来る」状態や制度であり、それが「ある不自由」の「逆の不自由」にすり替わっていないか、という例を挙げました。

参考にした物語

特撮テレビドラマ

大西信介ほか(監督),根元実樹ほか(脚本) ,2001 -2002(放映期間),『ウルトラマンコスモス』,TBS系列(放映局)

テレビドラマ

橋本一ほか(監督),真野勝成ほか(脚本),2000年6月3日-(放映期間,未完),『相棒』,テレビ朝日系列(放送)
平野俊一ほか(監督),佐藤敦司ほか(プロデューサー)後藤法子(脚本),2016,『家族のカタチ』,TBS系列
佐藤啓一(原作),佐藤東弥ほか(演出),梅田みか(脚本),2012,『ゴーストママ捜査線』,日本テレビ系列

テレビアニメ

伊達勇登ほか(監督),吉田伸ほか(脚本),岸本斉史(原作),2007-2017(放映期間),『NARUTO疾風伝』,テレビ東京系列(放映局)

高橋和希(原作),杉島邦久ほか(監督),武上純希ほか(脚本),2000-2004,『遊戯王デュエルモンスターズ』,テレビ東京系列

小説

東野圭吾,2010,『プラチナデータ』,幻冬舎
小林泰三,2019,『神獣の都』,新潮社

参考文献

柳田理科雄,1997,『空想科学読本2』,宝島社
鈴木貞美,2009,『自由の壁』,集英社新書


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