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自由と平等が両立するかを、「等価交換」から考える


 
 
 
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注意


 
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漫画
『キミのお金はどこに消えるのか』
『キミのお金はどこに消えるのか 令和サバイバル編』
『がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか』
『銀魂』
『ドラゴンボール』
 
 
小説
 
 
『斜陽』(太宰治)
 
 
 
 

はじめに


 
 
 
 しばしば政治学で、「自由」と「平等」が両立するかが議論されます。元々左翼はフランス革命で、この2つと「博愛」を重視したようなので、左や「リベラル」を名乗る人間がその2つを重視して、伝統的価値観や自国の利益を重視する右翼や「保守」の人間と対立するようです。
 しかし、「自由と平等は両立するのか」という疑問はしばしば挙げられます。経済学の書籍『予測不能の時代』では、経済学を物理学から検証して、エントロピー増大から格差が拡大すると導き、これを規制しなければ平等を守れないので、「自由と平等は両立しない」と書いています。エントロピーと所得の分布は『トコトンやさしいエントロピーの本』にも関連が書いてあり、これとは一致せず、本当にエントロピーと所得の格差は一致するのか怪しいと私は考えていますが、「自由と平等」について重要です。
 『自由の壁』では、宗教的な縛りから「自由」になるために、フランスの学校で宗教的服装を禁じる法律が定められ、かえってイスラームのマイノリティの不自由になっていないか、という議論が紹介されています。これを「自由と平等が両立するか」として扱うそうです。
 
 

「自由」と「平等」の定義から考え直す


 
 
 しかし、本当に「自由」と「平等」は原理的に両立しないのか、というより「自由」とは何か、「平等」とは何か、というところが悩むところです。そもそも、格差が拡大した社会では、一握りの人間しか「自由」になれないとも言えます。「自由」と「平等」の定義から捉え直した方が良いのではないか、と考えています。
 
 そこで私なりの「自由」と「平等」の定義は、「ものや人に優劣がない」というのが一般的な「平等」で、「優劣を付けるのが許される」のが一般的な「自由」で、真の「自由」と「平等」は、「人やものに優劣はあるが、その定義が複数ある」と考えれば両立すると推測しました。
 少しずつ説明します。
 
 

「等価交換」の間違い


 
 


 
 まず私がこれを考えたきっかけは、マルクスの経済学の「等価交換」です。マルクスの『資本論』では、経済を商品という1つの要素から考え、その交換を重視します。マルクスは労働量で商品の価値が決まるとして、同じ労働量による等しい価値が様々な商品にあり、それらを、貨幣も含めて交換することで経済が成り立つとみなしたようです。
 しかし、市場原理主義者の木村貴さんは、「等価交換」のところからマルクスを批判しています。
 まとめますと、「人物AとBでリンゴと貨幣を交換したとき、Aにとってはリンゴより貨幣が、Bにとっては貨幣よりリンゴが価値の高いから交換が成り立ち、実際に多くの場合で返品は出来ない。価値はそれぞれの主観で決まるので、絶対的な価値が商品に等しくあるわけではない」ということでした。
 実際に、井上純一さんの『キミのお金はどこに消えるのか』シリーズでも、絶対的な価値を商品に見出すのは、それを生まないものの排除に繋がるので害悪だという「積極的主観価値説」が紹介されています。「価値の源は価値観の違い」だともあります。
 これをマルクスでは、G(貨幣)とW(商品)に絶対的で客観的な等しい価値があるときだけ交換が、水平に成り立つと推測したため、間違いが生じたとも考えられます。
 しかし、マルクスが問題視した格差や労働賃金の低さは無視して良いものと思えないので、その段階として、私はこの「等価交換」の図を自分なりに変えてみました。
 それが「ノコギリ状交換」です。ここから「自由と平等」、そして「貨幣の価値が下がるインフレや経済成長」の重要さを考えました。
 

「価値が少しずつ下がる」ことによる交換


 
 
 まず、リンゴなどの食糧や服などの衣料品を含む生活必需品と、「労働」という概念、そして「貨幣」の価値を考えますと、それぞれ「時間と共にその価値が少しずつ下がる」ことが気になります。
 リンゴを売る人間にとって、そのときリンゴより貨幣が大事だから売るとしても、そのような交換が続くならば、持っているものの主観的な価値は上がり続けるはずです。ここで、「そんなことはないから、持っているものの交換を数字の価値でいつまでも考え続けるのに意味はない」と、マルクスが間違っているというだけで終わらせる人もいるかもしれませんが、私はここで踏み込みました。「ならばジグザグの価値の変動による交換はどうか」と。
 つまり、リンゴより持ち主の主観で高い貨幣に交換しても、リンゴを食べて栄養やエネルギーや何らかの幸福感に変換しても、その「価値」がしばらくすると下がる、というより時間と共に少しずつ下がっていく焦りこそ交換で重要だと考えました。
 リンゴを食べたエネルギーや喜びは、やがて代謝でなくなるため、その前に働くなどで新しい価値を一定時間内に生み出す必要があります。そしてその労働を新しい商品や貨幣に交換する必要もあるでしょう。もちろん保存しても劣化して価値が落ちます。
 つまり、G(貨幣)でW(商品)の1つのリンゴを買っても、食べたり保存したりして持っているものの価値が主観的に落ちるからこそ、その間に交換することで経済を回すと言えます。
 

ノコギリ状交換


 




 
 
 
 つまり、GとWは水平に一定の価値で交換し続けるのではなく、Gの価値が一定時間で落ちるので、それより(持ち主の主観では)価値の高いものに交換して、それがまた価値を落とす繰り返しで、ちょうど私の図では、ノコギリのような交換にあるのではないか、と推測しました。
 
 また、水平の交換では左右対称で、可逆なので、返品出来てしまい多くの場面で矛盾しますが、ノコギリ状交換なら左右非対称で、時間について不可逆的で、返品出来ないのもある程度説明出来ると考えます。
 

インフレでは「貨幣を持っているより使う方が得である」


 
 
 
 また、少し脱線しますが、『キミのお金はどこに消えるのか』シリーズで井上純一さんは「健全な経済成長とは、みんなの持っているお金が増える、GDPで年間2-4%ほどのインフレである」として、主婦の月さんはインフレを「物価が上がるから」と嫌がっています。
 この辺りの説明で井上さんも苦慮しているようですが、月さんは出身地の中国で、(井上さん曰く「真っ当に経済成長した」ので)、少しずつインフレし、ある人が同じ貨幣の元を銀行に預け続けて、その価値が数十年間で大幅に下がり大損したという体験談を話しています。
 また、現代日本で国債を大量に発行するとハイパーインフレになるという危機感について、これは池上彰さんなども説明していますが、井上さんによると「ハイパーインフレというのは年間に物価が130倍になるほどの異常事態で、戦争や災害でものがなくなるときぐらいにしか起きない」そうです。そして、ハイパーインフレでは物価が一気に上がるので、買い占めなども起きるそうです。
 これは、インフレにより「今」持っている貨幣の価値が下がると、「持っているより使う方が得だ」と消費が激しくなるわけですが、ハイパーインフレではものが一気に買い占められるのでしょう。
 しかし、健全なインフレならば、むしろ「今少しずつ物価が上がるから、今のうちに少しだけ買っておこう」と細く長く消費や交換が続く、と井上さんは言いたいとみられます。
 
 一見関係ないようですが、これもノコギリ状交換で説明出来ます。
リンゴを売って貨幣に変換しても、通常のデフレでは他のものの値段が下がり続ける、そして貨幣の価値が上がり続けるので、「使うより持っている方が得だ」と交換しなくなり、保存の利く貨幣だけが消費されずに残ってしまうのだとみられます。
 すると、「今」貨幣を多く持つ高所得者に有利なデフレの循環も起きるのでしょう。経済格差を容認する木村さんがデフレを推進するのは、そのためだとみられます。
 一方少しずつのインフレならば、リンゴを売った貨幣の価値も、他の商品に対して一般基準で下がり、持ち主にとっても主観的に下がる場合が多いので、「今貨幣を持つより、少しだけ使う方が良い」と思わせることで、健全な交換が成り立つとみられます。
 
 貨幣や商品、それを使うことによるエネルギーや幸福感なども、「一定時間で価値が下がる」ことで健全な交換を成り立たせるとみなせば、ノコギリ状交換は等価交換よりは汎用性の高い図式ではないか、と私はみなしています。
 これは既に他の誰かが考えているかもしれませんが。
 
 
 

減価償却


 
 
 なお、経済用語では、会社の設備などは、減価償却という概念で、少しずつ価値が落ちるという考え方で費用を払い続けるそうです。
 『環境と経済の文明史』では、共産主義国家にこの減価償却がなかったことを失敗の原因の1つだとしています。
 
 

「優劣の定義が逆転する」


 
 
 
 
 長くなりましたが、この経済の図式で、「自由」と「平等」を両立出来るとも考えています。
 つまり、「リンゴとある量の貨幣」が交換出来るならば、それはリンゴとその貨幣が「平等な価値」を客観的に持つと多くの場合は考えるのでしょうが、私はこれを、「価値の差異がない」と考えるのではなく、「価値の差異が人によって逆転している」と考えました。
 リンゴより貨幣の方が上、貨幣よりリンゴの方が上だと考える持ち主の両方がいて初めて交換が成り立ち返品出来ないとすれば、井上さんが「価値の源は価値観の差異」だと主張するのにも繋がります。
 先ほどのGとWの交換の図式に加えれば、Gより主観価値の高いWに交換する一方で、そのWより別の主観では価値の高いGに交換しているとみなし、価値観が複数あるとすれば、「自由」にも繋がるかもしれません。
 そして「平等」とは「価値に差異がない」のではなく、「価値に差異があるが、それが人によって逆転している」ので、「絶対的な上下はない」とみなすことこそ重要なのではないかと考えました。
 
 
 

「人はみな同じものだ」と「自由」と「平等」


 
 
 
 
 
 また、太宰治の『斜陽』では、戦後の日本のいわゆる没落貴族の視点で描かれ、マルキシズムや左翼運動に疑問を持つくだりもあります。そして、「人はみな同じものだ」という本来マルキシズムや民主主義とも関係ない、「酒場で醜男が言うような」言葉が、マルキシズムや民主主義を変化させて悪くするという趣旨の主張があります。「人はみな優れている」と何故言えないのか、ともあります。
 これこそ、まさに左翼の「自由」と「平等」の問題点、そしてマルクスの「等価交換」の問題点を繋げていると考えます。
 リンゴより貨幣の大事な人間と逆の人間で交換が成り立っている、つまり両者の価値に差異や優劣があるとみなしているはずの交換を、「リンゴも貨幣も同じ価値の商品だ」と優劣や差異を認めず、絶対的な価値を主張したために、マルキシズムは悪化したとも考えられます。
 また、人間に優劣を付けることへの批判が左翼の「平等」により生まれて、それで「優劣を付けたい」、「自由」を阻んでいるので左翼は自己矛盾を起こしたと主張する人間もいるかもしれません。しかし、人間Aより人間Bの方が優れているとみなす人間と、逆の価値観を持つ人間が両方いれば、「人はみな優れている」とみなせるので、「優劣を付ける自由」と、「その優劣が視点によって逆転するので、絶対的な優劣はない平等」が両立すると私は考えました。
 人間に優劣を付けるのを阻む「人はみな同じものだ」という主張が、価値観の差異から生まれる価値を消すのだと太宰治は推測したのかもしれません。『銀魂』原作でも人気投票のとき、「スポーツで順位を付けない」ことを疑問視する主張がありました。
 優劣の定義が複数あるという「自由」と「平等」があるべきなのを、多くの人間は、優劣をなくすのを「平等」だとみなすことで「自由」と矛盾したと、私は考えています。
 
 

ある意味強いところとある意味弱いところと「自由」と「平等」


 
 
 
 
 これは、私の主張する「真の弱者と強者ではなく、ある意味強いところとある意味弱いところを探すべきだ」という主張にも繋がるかもしれません。
 商品の交換も、それぞれの商品に、買い手や売り手の主観で、つまり「ある意味」、強いところと弱いところがあり、それらを比べる組み合わせで成り立つとすれば、かなり整理出来ます。これを「真の弱者」と「真の強者」のように、絶対的な優劣で判断すると、それをなくそうとする「平等」が「自由」を阻んだり、格差が広がるように一握りの価値観を押し通す「自由」が「平等」を阻んだり、自分と異なる価値観、正確には「優劣の定義」を認められなくなったりするかもしれません。
 
 
 たとえば、人間の考えを読める超能力のある人間でも、それを使えない人間の「気持ち」はなってみないと分からないように、絶対的な優劣がない、「ある意味」の主観的な優劣はあってもそれが別の主観や視点で逆転し得ることで、真の「自由と平等」が生まれると、私は考えています。
 

『ドラゴンボール』の「ある意味強いところ」と「ある意味弱いところ」


 
 
 
 
 
 ここからはおまけですが、『ドラゴンボール』中盤では、3種類の宇宙人の能力がそれぞれ「自由」と「平等」に繋がった可能性を考えています。ナメック星人とサイヤ人とフリーザです。
 ナメック星人は願いを叶えるドラゴンボールの製造、治癒や再生など、「創造」に関わる能力があり、サイヤ人は高い戦闘能力と、「瀕死の重傷から再生するたびに強くなる」体質を持ち、フリーザは他の戦士でも出来る惑星破壊の能力と、その時点では自分だけ宇宙空間に耐える能力がありました。
 これらの組み合わせが、フリーザとの戦いを盛り上げています。サイヤ人が単独で出来ない負傷をナメック星人が治療して、それまでにない強さを生み出したり、フリーザは再生出来なかったり、フリーザが自分より弱いものの再生出来るナメック星人に驚いて時間を稼がれたり、というようにです。
 これらの、決して一列には並べられないものの確かにある優劣、「ある意味強いところとある意味弱いところ」の組み合わせが物語を盛り上げていました。
 
 
 

ピッコロの肯定した「自由」とベジータの否定した「平等」


 
 
 
 
 ナメック星人としては珍しく悪役だった、最初のピッコロ大魔王は地球の王になったときに、「私は人間を縛らない。あらゆる悪を許す」という独特の敵でした。味方になってからもピッコロは、強く鍛えようとした孫悟飯に「学者になりたければなるが良い」と言ったり、強い敵が来るので修行すべきだという自分の警告を信じないヤムチャ達に、「信じないなら勝手に遊んでいろ」と言ったりして、憎まれ口を叩きつつも「自由」を重視しているところがあります。
 一方サイヤ人のベジータは、自分の強さを主張して、不老不死になり宇宙を支配して、自分より強さや地位で上であるフリーザを超えようとしていました。こちらは「平等」を否定しているとも言えます。
 しかし、ピッコロは本来敵の息子である悟飯を、別の敵に立ち向かうためとはいえ鍛えなければならず、「学者になりたければ好きにしろ」と言いつつも一時的にその「自由」を奪わなければならず、のちに未来からの情報を周りに、未来人のために部分的に黙る配慮をしています。
 ベジータも自分より弱い個体の多いナメック星人の能力で知らず知らず生き延びており、何か思うところがあったらしく、なおかつ、ベジータに追い抜かれたフリーザの細胞を持つセルが自爆しても宇宙空間で生き延び、自爆によって強いサイヤ人の孫悟空が死んだのを「あんな死に方」と言っています。
 ピッコロは「自由」を部分的に否定して、ベジータは自分より下だと思っている宇宙人の能力で追い詰められたり助けられたりして、「平等」について考えるところがあったかもしれません。
 
 

まとめ


 
 いずれにせよ、「自由」と「平等」を両立させるには、商品の優劣が逆転して、インフレなどで時間と共に価値が落ちることによるノコギリ状交換をするなど、「優劣の定義が逆転する」という概念が必要だと考えました。
 それは「ある意味強いところ」と「ある意味弱いところ」でもあり、『ドラゴンボール』のピッコロとベジータの主張から見出せる「自由」と「平等」にも繋がるかもしれません。
 
 
 
 

参考にした物語や漫画


 
 
 
井上純一/著,飯田泰之/監修,2018,『キミのお金はどこに消えるのか』,KADOKAWA
井上純一/著,アル・シャード/企画協力,2019,『キミのお金はどこに消えるのか 令和サバイバル編』,KADOKAWA
井上純一(著),アル・シャード(監修),2021,『がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか』,KADOKAWA
空知英秋,2004-2019(発行期間),『銀魂』,集英社(出版社)
鳥山明,1985-1995(発行期間),『ドラゴンボール』,集英社(出版社)
 
 
小説
 
太宰治,2003,『斜陽』,新潮社
 
 
 
 

参考文献


 
 
石原顕光,2020,『トコトンやさしいエントロピーの本』,日刊工業新聞社
矢野和男,2021,『予測不能の時代』,草思社
鈴木貞美,2009,『自由の壁』,集英社新書
花岡幸子,2016,『経済用語図鑑』,WAVE出版
池上彰,2009,『高校生から分かる「資本論」』,ホーム社
佐藤優,2014,『いま生きる「資本論」』,新潮社
木村貴,2022,『反資本主義が日本を滅ぼす』,コスミック出版
細田衛士,2010,『環境と経済の文明史』,NTT出版


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