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「分かろうとしろ」は「自己責任」論と、「最低限の努力をしろ」という意味では通じているのではないか

https://note.com/meta13c/n/n7575b6c0826b
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注意

 これらの物語の重要な展開を明かします。

特撮テレビドラマ

『ウルトラマンガイア』
『ウルトラマンコスモス』
『ウルトラマンメビウス』

テレビアニメ

『新世紀エヴァンゲリオン』

特撮映画

『ゴジラVSスペースゴジラ』
『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』

実写映画

『ターミネーター4』

テレビドラマ

『下町ロケット』(TBS)
『青天を衝け』
『コントロール』

はじめに

 私は「人の気持ちを分かれ」という主張について、幾つかの推測や意見を述べました。
 そのときに、「分からないなりに分かろうとしろ」という主張に違和感があり、それが「自己責任」論に通じる可能性を考えています。

3つの記事から

 まず、「気持ちを分かれ」とは、相手が人間でないとき、宇宙人などの「人」ですらないとき、たとえばゴジラなども含めて、「悪い奴は良い奴の気持ちを分かれ」、「良い奴に近付け」という意味なのだと推測しています。
 「ゴジラの気持ちを分かれ」という主張はゴジラシリーズに時折ありますが、それは「核兵器の被害者であるゴジラより人間の方が悪い奴だ」と言えるときに限るはずです。
 「あなたの気持ちは分かる」というのは、「私はあなたをその点では責めない」、「その点であなたが悪いとは思わない」という意味だと推測しています。

2023年4月13日閲覧


 また、漫画などで「心の声」として表現される「気持ち」は、実際のところ、「言いたいけれど何らかの事情で言わない台詞」でしかないことが多く、「気持ち」そのものとは言い切れません。小説で人物の内面が語られていても、特に推理小説などの場合は、その内面の前提となる「実はこの人間は犯罪者だった、被害者だった」などの事実を途中まで示さないこともあり、内面描写も「気持ち」の全てとは限りません。

 
 さらに、たとえば足を骨折したことのない人間が、漫画のような「心を読む」能力で、「足を骨折して、痛くないと言い張っている人間が実は痛がっている」ことが分かったとしても、自分に経験がない以上は、「痛い」という「心の声」が分かったとしても、足の骨折そのものの痛みは分からないはずです。
 つまり、経験や立場に基づく「感覚」は、「心を読む能力」でも、同じ経験がない限り分からないのです。
 逆説的に言えば、「テレパシーを使えない人間の気持ち」は、使える人間がテレパシーで読み取っても、「分かった」ことにならないとも言えます。
 『地球へ…』原作で、人間の心を一方的に読んで自分は読ませない超能力者「ミュウ」の種族は、恐怖する人間からの攻撃に憤っていましたが、自分達を超える超能力者「ナスカの子」に読まれて初めて、気味の悪そうな反応をしました。テレパシーを使われて恐怖する人間の「気持ち」は、テレパシーを使える超能力者には、同じ立場になるまで分からないということです。

2023年4月13日閲覧


「悪い奴」か分からない相手の「気持ち」

2023年4月13日閲覧


 また、ウルトラシリーズの怪獣や『新世紀エヴァンゲリオン』の使徒は、人間を攻撃する、人間ではない存在が多く、基本的に「悪い奴」の扱いですが、その「気持ち」を分かることはあります。
 たとえば『エヴァ』の序盤のサキエルは、人間の街を攻撃しているものの、自分のためにしていると言い切れず、邪魔をするエヴァンゲリオンもろとも自爆しようとしたため、使徒に父親などを殺されて恨みを持つらしいミサトを驚かせました。
 ミサトにしてみれば、「敵が自分の利益のために人間に損害を出すだけなら、簡単に恨むことが出来た」ということかもしれませんが、敵が自分の命も軽んじているため、恨みにくくなったかもしれません。そもそも、ミサトの父親を含めて人類の多くが犠牲になったのも、人間の接触がきっかけの、使徒の自爆とも取れる爆発でしたから、使徒は利己的とも限りません。
 また、『ウルトラマンメビウス』の怪獣のボガールは、他の怪獣を捕食して、本作で怪獣は敵だとみなされることがほとんどなのですが、人間の防衛隊員のリュウは、「ボガールは有益なのか」と推測し、怪獣そのものに情があるとは言えないウルトラマンメビウス=ミライは「あれには悪意を感じた」と話しています。
 その「悪意」は確かに当たっていました。何故ならボガールは人間を守るために怪獣を捕食しているのではなく、むしろ他の怪獣に人間を捕食させてから自分が食べることもあったためです。ミライ達がそこまで確認していたか分かりませんが。

 しかし、『エヴァ』の使徒にしても、『メビウス』のボガールにしても、その「気持ち」を分かるというのは許す、和解するという意味ではなく、その攻撃の意図、何の目的かを具体的な行動の分岐点から探ることです。
 使徒は何故自爆してでも攻撃するのか、そもそも最初の使徒の自爆は何が原因だったのか、どこに向かっているのかなどは、内面ではなく外面の動きから探る必要があります。
 ボガールも、何故人間に有害な怪獣を食べるのか、何故人間を他の怪獣に食わせるのか、何故人間を直接捕食しないのか、などは、ボガールの心情ではなくその体質などから推測する必要があります。
 つまり、「気持ちを分かる」というのは、「行動の分岐点」であることがあるのです。
 漫画や小説と異なり内面描写、たとえば「心の声」が扱われにくいドラマや実写映画の場合は、気持ちの根拠を「実は彼は過去にこのようなことをしていた、このような体験があった」などで示すことが多いと言えます。

「気持ち」とは「善悪や論理の前提となる事実」のときもある

 この3つのnoteから私が主張したいのは、「気持ちを分かれ」というのは「悪い奴は良い奴の気持ちを分かれ」という意味で、重要なのはまず、論理で説明出来ない立場や感覚や経験などの「善悪の前提」であることです。
 骨折したことのない人間には、たとえテレパシーがあっても骨折の痛みそのものは分からないでしょうし、それはテレパシーをもってしても「論理で伝えられない、実体験でしか伝わらない感覚」でしょう。つまり、「気持ち」とは「論理で伝えられない、論理の前提」とも言えます。
 そして、悪意か善意かの二分法はやや強引かもしれませんが、「気持ち」とは正確には、ドラマや実写映画、あるいは推理小説では、「彼のその分かりにくい行動の真意はこうであることを、過去の行動などから示す」ということもあります。大抵は善意か悪意かに分かれます。重要なのは、内面ではなく外面の事実、ただし何かに覆われている「分かりにくい事実」なのでしょう。

 「気持ち」とは、善悪の前提、論理の前提、分かりにくい事実だと考えれば、「善悪を支える論理の前提となる、分かりにくい事実」だと考えれば、かなり整理出来ます。

「分かろうとしろ」の前提

 さて、この議論から、ある主張をします。「分からないなりに分かろうとしろ」という主張をネットやドラマで見かけるときの、私の違和感を私なりに説明します。

2023年4月13日閲覧

 まず、私が自分で「分かろうとしていなかったことを悔やんだ」ことはあります。それは本を読むとき、特に何らかの記述を探しているときなどで、「目次や索引に書いてあるのに気付かずに、分からないと言っていた」ときです。
 つまり、「分かろうとしない」というのは、「分からない以前に、分かるための目印に気付かない」ことなのでしょう。
 また、『下町ロケット』TBSドラマ版で、「私はお父さんに言いたくないことがある」、「言いたくないことって何だ」、「言いたくないこと言うわけないじゃん、馬鹿じゃないの」という会話がありましたが、これは、「理解してほしくない」のパラドキシカルなところがあります。
 先ほどの「テレパシーで心を読まれて恐怖する人間」にも通じますが、人間には「理解してほしくないところ」もあります。
 『ウルトラマンガイア』のメザードや『ウルトラマンコスモス』のカオスヘッダーに「心をのぞかれて」、正確には分析されて不快に思う人間がいました。
 しかしそれは、「何も理解してほしくないなら、それを伝えるのは理解してほしいのではないか?」というパラドックスになります。
 これは、「理解してほしくないところ」の目印だけは、「これ以上は入るな」という立入禁止の看板のようなところだけは理解してほしいとみられます。
 「分かってほしくないところ」の目印だけは「分かってほしい」ように、「分かろうとしろ」というのは、本の目次のような、「肝心の目印」だけでも分かってほしい、という意味なのでしょう。
 「何も分かっていない」というのも、正確には「肝心なところを何も分かっていない」ということなのでしょう。

読書を一般化出来るか

 しかし、これはあくまでも読書が好きな私の体験から、「本のことを分かるためには、目次や索引を読むぐらいはすべきだ」ということが「分かろうとする」に該当するという推測に過ぎません。
 仕事におけるパソコンの使い方や、性別や年齢の異なる人間の口論を仲裁するための「分かる」と「分かろうとする」の違いが、「本を読む」、「目次や索引を読む」に該当するのが何なのかは、まだ私には分かりません。

 私は、「分からないなりに分かろうとしろ」というのが、「分かりにくい本体」と「分かりやすい目印」に分ける作業に該当すると考えています。
 その最低限の作業や動作をしない人間を、「分かろうともしていない」と表現するのかもしれない、と推測していますが、その表現する側も果たして「分かろうとする」ことを常にしているか、それすら「分からない」かもしれません。

「自己責任」論における「努力」の前提

 また、近年は「自己責任」という言葉が否定されるか肯定されるかがあちこちで議論されているようですが、これも「分かろうとしろ」に通じるところがあるかもしれません。
 つまり、「分かるための最低限の努力」をしろ、と言うように、「世の中を恨む前に自分の努力が最低限の線を超えていないと考えろ、自分の責任だ」という意味なのでしょう。
 『青天を衝け』で、「貧困は己の責任だ。努力しない者を税金で助けるべきではない」という主張をする人間がいました。
 しかし、何をもって「最低限の努力」なのかが難しいと言えます。

「必要最低限」の弊害

 たとえば、岩本裕さんは、「必要最小限」という言葉をある場で使うのに批判的です。それは、新聞などの世論調査での、政策の是非です。
 具体的には「集団的自衛権を認めるか」の調査なのですが、その政策を進める政権寄りの新聞が「認めるか認めないか」の間に、「最小限の行使は認めるか」という選択肢を設けたことを、岩本さんは批判しています。
 池上彰さんも似たような話題で、「やや賛成」、「やや反対」などに似たような批判をしています。「やや」が付く時点で、単なる賛成や反対とみなしにくいだろう、と主張しています。
 つまり、質問の前提に、「必要最小限」という言葉を含めてしまうと、質問自体に賛成の意見が混ざるので、「必要最低限や必要最小限なら何でも認めるに決まっているだろう」と批判しているわけです。
 何が「必要か」、「最低限か」を決めなければならないのが「自己責任」論や「気持ちを分かれ」の是非であるにもかかわらず、最初から「最低限の努力をしていない人間が悪い」と決めてしまっているのです。

「努力」に「目次や索引」はあるか

 その意味で、「自己責任」論も、たとえば給料が低いときに、あるいは失業するときに、「最低限の努力をしないならそうなって当然だ」という主張にしたいのでしょうが、それは「国などが助けたり企業が雇用条件を変えたりするのは良いことか」という議論に、「そのための労働者側の最低限の努力があるはずだ」という結論が混ざった言葉を「条件」にしてしまうのでしょう。
 「分かろうとしろ」にも、「分かるための最低限の努力をしろ」と言う側が、何が最低限かの前提を決めてしまっていると言えます。
 重要なのは、本の目次や索引のような「誰でも分かりやすい」目印が、「自己責任」論や「分かろうとしろ」の主張における、「最低限の努力の定義」として存在しているかです。それが誰にでも分かる「事実」なのか、単に責任を個人や相手に求める側の「意見」なのかが分かれ目です。

何が「最低限の努力」なのか

 「気持ちを分かれ、せめて分かろうとしろ」という言葉に話題を戻しますと、「気持ちの最低限の目印だけは分かれ」という意味だとすれば、その目印が本当に「最低限」なのか、誰にでも分かって当然だという意見を誰が決めるのか、という「善悪の前提」があるのでしょう。
 たとえば、『ターミネーター4』で、機械の軍により壊滅した世界で人類を守ろうと抵抗軍の仲間を集めようとするジョン・コナーは、「これを聞いている君は抵抗軍の一員だ」とラジオで言っていますが、それはラジオで英語を聞ける人間しか集められません。
 ラジオと英語の能力が「生き残るための最低限の努力」なのか、それも出来ない人間は「自己責任」で抵抗軍に入れなくても良いのか、英語とラジオの能力は常識として「分かろうとする」努力をしなければならないのか、という疑問の余地があります。
 そのような「前提」が崩れた場合は、「分かろうとしろ」も通用しないかもしれません。
 
 

善悪の前提を覆す「事実」

 たとえば、ドラマ『コントロール』では、3人の人間が殺され、警察に協力する心理学者が3人目の遺族に失礼と取れる態度を取り、刑事に「心理学者なのに、人の気持ちが分からないんですか!」と怒鳴られました。容疑者も逮捕されたのですが、容疑者は「3人目だけは殺していない」と主張しました。
 しかしその「真相」、というより事実として、根本的な逆転がありました。3人目の被害者だけは、その家族に殺されていたのです。容疑者は本当のことを話していたわけです。
 「気持ちを分かれ」というのが、犯罪の場合は、基本的に「加害者などの悪い奴は被害者などの良い奴の気持ちを分かれ」という意味なのでしょう。通常は、被害者を悪く言ってはいけないはずですし。
 しかし、その加害者と被害者が部分的には逆で、容疑者は3人目については冤罪の被害者で、遺族が加害者だったわけです。
 そのことに、心理学者は勘付いていたのです。
 けれども、「2人殺して、3人目に関しては冤罪であり、正直に自白している」容疑者の気持ち、意見や、「家族を殺して警察に黙っている」遺族の気持ち、意見を「分かる」、「分かろうとする」必要があると、通常は言わないはずです。
 重要なのは、前提となる「誰が誰を殺したか」の事実でしょう。
 「気持ちを分かれ」で重要なのは、多くの物語の場合は、「意見や行動の前提となる事実」だと言えます。その「前提に気付く」ことが、「最低限の努力」なのでしょう。
 しかし、現実世界は限られた時間でその「事実」が明らかになる保証もなく、その「事実」がそれまでの論理を覆すほどの力を持つとも限りません。

まとめ

 何が「最低限の努力か」を確認しなければ、「分かろうとしろ」も「自己責任」論も成り立たないというのが、現時点での私の結論です。
 「何も分かってはいない」というのは、「肝心なところを何も分かっていない」という意味だと私は推測していますが、「最低限の努力」にも通じるとみられます。しかし、それが本当に「最低限」か、「肝心」かは、事実なのか意見なのかなどを踏まえて見きわめる必要があります。

参考にした物語

特撮テレビドラマ

根本実樹ほか(監督),武上純希ほか(脚本),1998 -1999(放映期間),『ウルトラマンガイア』,TBS系列(放映局)
大西信介ほか(監督),根元実樹ほか(脚本) ,2001 -2002(放映期間),『ウルトラマンコスモス』,TBS系列(放映局)
村石宏實ほか(監督),小林雄次ほか(脚本) ,2006 -2007 (放映期間),『ウルトラマンメビウス』,TBS系列(放映局)

テレビアニメ

庵野秀明(監督),薩川昭夫ほか(脚本),GAINAX(原作),1995-1996(放映期間),『新世紀エヴァンゲリオン』,テレビ東京系列(放映局)

特撮映画

山下賢章(監督),柏原寛司(脚本),1994,『ゴジラVSスペースゴジラ』,東宝
手塚昌明(監督),横谷昌宏(脚本),2003,『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』,東宝

テレビドラマ

伊與田英徳ほか(プロデューサー),八津弘幸ほか(脚本),池井戸潤(原作),2015,『下町ロケット』,TBS系列(放映局)
大森美香(脚本),黒崎博(演出),2021,『青天を衝け』,NHK系列
貸川聡子(プロデューサー),村上正典ほか(演出),寺田敏雄ほか(脚本),2011,『コントロール 犯罪心理捜査』,フジテレビ系列(放映局)

実写映画

マックG(監督),ジョン・ブランケットほか(脚本),2009,『ターミネーター4』,ソニー・ピクチャーズエンタテイメント(配給)

参考文献

岩本裕,2015,『世論調査とは何だろうか』,岩波新書
池上彰,2015,『池上彰に聞くどうなってるの?ニッポンの新聞』,東京堂出版

 
 
 

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