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『ドラゴンボール』とカオス理論の「予定調和を否定する認識」



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注意

漫画
『ドラゴンボール』
『NARUTO』
『銀魂』
『JIN-仁-』
『新世紀エヴァンゲリオン』
『マンガで分かる心療内科』


テレビアニメ
『NARUTO 』
『NARUTO 疾風伝』
『銀魂』
『新世紀エヴァンゲリオン』
『宇宙戦艦ヤマト2199』

テレビドラマ
『JIN-仁-』
『JIN-仁- 完結編』

アニメ映画
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』
『宇宙戦艦ヤマト』
『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』
『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』
『ヤマトよ永遠に』
『宇宙戦艦ヤマト3』
『宇宙戦艦ヤマト 完結編』

これらの重要な情報を明かします。


はじめに


 私は様々な物語を読むときに、ある主張に有利な予定調和が働くことがあるとみなすことがあります。
 詳しくは後述しますが、『ドラゴンボール』と比較しますと、『NARUTO』には予定調和が見られます。
 それは、幾つかの特徴を比較することで、現実にある混乱を物語で抑えるためだと推測しています。
 ここでは、その予定調和を破壊する、数学的に「カオス理論」で説明出来る部分を取り上げます。


『JIN』のバタフライエフェクト


 まず、いきなり脱線してしまいますが、『ドラゴンボール』と似たようにタイムスリップの要素を持つ『JIN-仁-』で、カオス理論を用いた説明があります。
 現代の医師である南方仁が幕末にタイムスリップした『JIN』では、特にドラマ版で、僅かな変化が善意、悪意を問わずに歴史を大きく変える危険性が指摘されています。
 これを、流体力学における「チョウの羽ばたきが竜巻を起こす」バタフライエフェクトで例示しています。
 仁は「俺が一歩歩くことさえ罪深いことなのではないか。本当は消え去らねばならないのではないか」とまで悩んでいます。
 現実のカオス理論では、最初の小さな影響が時間経過と共に大きな変化をもたらすこともあり、コンピューターや数式で無視される僅かな誤差すらあとの結果を大きく変える可能性のある「初期値鋭敏性」があります。バタフライエフェクトもその例です。
 それは、主人公などの数学だけでない理論に当てはまらない誤差がのちに拡大すると言えます。
 また、初期値の差異と経過時間から、あとの値の差異を直線のような数式で表せない場合、非線形と表現されます。
 これは数学的な概念ですが、『JIN』や『ドラゴンボール』の歴史や戦いの流れにも当てはまるところがあります。
 まず、『JIN』で仁が1人の人間を助けたことがきっかけに社会への知識の拡大や人間関係の構築が進み、影響が広がっていきます。さらに、仁はのちの歴史に大きな役割を果たす人間の命も左右することがあり、「初期値」を僅かにずらすことへの恐怖が伴います。
 そして、仁は歴史にあまり詳しくなく、どの人物を助けたことでどれほどの影響が出るかの予測をしにくいと言えます。非線形性は、これに当てはまると私は考えています。
 さらに、仁は誰が死ぬことも忌避する優しさがあるため、幕末特有の人間同士の争いにより、「自分が誰かを助ければ誰かが苦しむのではないか?」という意味で、仁にとってのプラスとマイナスが反転し得るところがあります。

インフレーションと「塞翁が馬」


 これが『ドラゴンボール』シリーズでは、「もし~ならば」という仮定の予測をする余地の多さで重要になります。
 『ドラゴンボール』シリーズでは、様々な強敵が現れて、対抗して強くなってはさらに強い敵が現れることを繰り返します。しかし、「この敵に前もって対処しておけば良かった」という主張もされますが、「そうしてしまうと強くならなくなり、あとの敵に対処出来ない」という例が多々あります。
 「強さのインフレーション」は『ドラゴンボール』の特徴として有名です。具体的には、ラディッツ戦で、「亀仙人<クリリン<天津飯<ピッコロ<孫悟空<ラディッツ」、ベジータが地球に襲来した時点からナメック星での戦いまでで、「ラディッツ<閻魔大王<北の界王<ナッパ<ベジータ<ネイル<界王拳を使う悟空<フリーザ第一形態<フリーザ第二形態<ネイルと同化したピッコロ<フリーザ第三形態<フリーザ最終形態<超サイヤ人の悟空」、人造人間編で、「サイボーグのフリーザ<超サイヤ人の未来のトランクス<未来の人造人間17号及び18号<現代の人造人間17号及び18号<人造人間16号<セル第二形態<超ベジータ<セル完全体<超サイヤ人2の孫悟飯」、魔人ブウ編で、「超サイヤ人2のベジータ<肥満体の魔人ブウ<超サイヤ人3の悟空<超サイヤ人3のゴテンクス<潜在能力を解放した悟飯<悟飯を吸収した魔人ブウ<ベジット」などになります。
 さらに「敵に対抗して強くなることが次の敵への対策になる」という「人間万事塞翁が馬」、「災い転じて福となす」、「禍福はあざなえる縄のごとし」とも言うべき現象が起きるため、「もっと強くなっておけば良かった」、「ここで敵を弱いうちに倒しておけば良かった」、「ここで敵から離れれば良かった」といった予測がしにくくなります。プラスがマイナスに、マイナスがプラスに変わり得るためです。
 また、悟空がラディッツに敵わない実力からナッパを倒すためには、かなりの時間や場所の制限があり、そのあともギニュー戦での負傷を治したための強化など、他の場所や条件では難しい強さの上昇があります。その上、強くなり過ぎても敵を多く倒すことでむしろのちの強化を妨げる可能性も否定は出来ません。
 数学的には、カオス理論で重視されるこのような漸化式があります。
 n番目の項x(n)に対して、x(n+1)=ax(n)(1-x(n))という式を導入します。x(n)が大き過ぎれば、1-x(n)が小さくなるため、次のx(n+1)が小さくなり、小さ過ぎると次が大きくなります。aの値が0から4までの場合は、xの値は変化を0から1までの範囲で繰り返します。aの値によっては、小さくなり過ぎる場合もありますが。
 フリーザは「中途半端な強さを身に付けた者は早死にする」と未来のトランクスに言い、自分にそれが跳ね返っています。

 単純な数式にしますと、『ドラゴンボール』は「ある時点nでのあるキャラクターの強さであるx(n)」が大き過ぎる値では、「敵に目を付けられずに済む、あるいは勝ち残れるなどで生き残る確率であるa(1-x(n))」が小さくなり、「塞翁が馬」を繰り返すのです。
 なお、表題の図は、「x(n+1)=ax(n)(1-x(n))」という漸化式に、a=3.9、x=0.9を代入した式に、初期値x(0)を0.01ずつずらしたときのx(n)の差異を縦軸、時間nを横軸にしたものです。
 初期値のずれが大きいからといって結果のずれも大きくなるとは限らないのも、かなり重要です。


実力差を覆す「非線形性」


 また、「非線形」という意味では、『ドラゴンボール』シリーズでは、実力差を覆す技が重要になります。
 たとえばクリリンの気円斬は、ほとんどのキャラクターの体を分断させてしまう威力があり、実力が無駄になります。
 模倣したのかは分かりませんが、それに近いベジータの技が、悟飯の尻尾を切断することで、その強さを大きく変えました。結果に対して、技そのものは容易であるようです。
 そのため、フリーザが似た技を超サイヤ人の悟空に使ったときは、悟空に「つまらん技」、「見損なった」、「今の貴様とは戦う気が起きない」と言われています。しかし、それが皮肉にも、悟空の望まない負傷をフリーザ自身にさせました。
 また、途中から『ドラゴンボール』のキャラクターは、ベジータの初登場した18000程度の戦闘力で地球を破壊することが可能であり、フリーザ第一形態ですら530000であり、容易に惑星を破壊出来るため、宇宙空間に耐えられるか、惑星破壊で周りを巻き込む精神があるかが実力以外で重要な戦略となります。セルや魔人ブウもそうでした。タイミングや角度を調整しなければ、どれほど強くても惑星破壊は止められません。
 さらに、セルは自爆を図り、それは「攻撃しても自爆を早めるだけ」なので、実力では防げませんでした。
 そして、魔人ブウは生命体のほとんどを生きたまま吸収して強くなれます。自分より強い悟飯すら吸収してしまい、バリヤーを張るベジット以外は太刀打ち出来ませんでした。これも実力では防げません。
 つまり、これらの切断、惑星破壊、自爆、吸収は、格闘やエネルギー波を主体とする『ドラゴンボール』の戦いでは、「攻撃を攻撃で相殺する」戦術を無効化してしまう「攻撃で防げない攻撃」なのです。
 それらは、インフレーションで自分の時間と共に発展させた実力を突然台無しにしてしまう意味で、悟空などの人物にとっては「つまらない技」なのでしょう。ベジータはセルの自爆で悟空が犠牲になったのを「あんな死に方しやがって」と嘆き、魔人ブウの吸収を悟空は「そりゃねえだろ」、「きたねえぞ」と言っています。

『ドラゴンボール』と『JIN』のカオス


 このようにして、『ドラゴンボール』は、強さのインフレーションで主人公の早くの行動が時間経過と共に大きな影響を与え、敵の出現によって影響のプラスとマイナスが反転し得る部分があり、インフレーションを実力や時間に関係のない技で破綻させる可能性もある「非線形」な部分もあります。
 『JIN』に話を戻しますと、幕末の社会や技術の発達が仁による影響を拡大させる源であり、仁にとって助けたい人間同士の争いが「自分による影響はプラスかもしれないしマイナスかもしれない」という恐怖をもたらし、どれほど時間や労力をかけても助けた誰かが死ぬのを予測し切れない「非線形」なところがあります。


『NARUTO』の能力の質


 では、他の作品にそういった要素はないのか、という点を考察することで、私が「カオス理論」を通じて主張したいことを突き詰めます。
 まず『NARUTO』では、『ドラゴンボール』に似たところがありますが、ある種の「能力の質の多様性」、「物語を盛り上げるシリアスな要素」が逆説的な予定調和をもたらします。

 共通点は下の記事で細かく記しました。


2022年2月25日閲覧
 しかし、『ドラゴンボール』の亀仙人のような「インフレーションに置いて行かれた師匠」に『NARUTO』で該当するはたけカカシは、終盤でも重要な役割を果たしています。
 それは、カカシの写輪眼という特殊能力が、物語全体を貫く忍者の戦いで重要な役割を果たすことにあります。そこには、「能力の質」の問題があります。
 『ゼロ年代の想像力』では、同じ『ジャンプ』系統の物語で、『ドラゴンボール』とのちの『ジョジョの奇妙な冒険』を比較して、前者が「戦闘力という1つの値で強さが決まり、弱いものは努力して追い抜かなければ絶対に勝てない」トーナメント式であるのに対し、後者は「能力がジャンケンのように最強がないものであり、弱点を突けば誰でも勝てる」バトルロワイヤル式だとあります。
 私は『ジョジョ』に詳しくありませんが、『NARUTO』もある意味で似た部分があります。
 それは、先述した『ドラゴンボール』の「実力差を覆す技」に『NARUTO』の何が対応するかで分かりやすくなります。
 私が考え得る限りの対応する要素を挙げます。
 気円斬に対応するのは、クナイなどの刃物です。『NARUTO』の忍者は岩に叩き付けられたり弾き飛ばされたりしても耐える頑健な体ですが、刃物には弱いようです。
 惑星破壊は、生物としての空気などに関わる弱点ですから、『NARUTO』では毒の攻撃がある意味で似ています。
 自爆は、『NARUTO』では屍鬼封尽(しきふうじん)による魂の封印や、蘇った死者が再生する穢土転生での攻撃などの道連れの技が応じるとみられます。
 そして魔人ブウの吸収は、写輪眼で術をコピーしたり、幻術で操ったりすることが、相手の強さを利用する意味で近いでしょう。

「弱点を突く」攻撃を防ぐ防御の質

  ただし、私はむしろ、『ドラゴンボール』より『NARUTO』が、その「弱点」で展開を予想しやすくしていると考えます。
 『NARUTO』に詳しい方からは、「それらの4種類の手段は実力の差を完全に覆すわけではない」という反論もあるはずです。
 何故なら、この4者には、さらなる対抗手段があるためです。
 クナイは同じクナイや額当てなどの金属で防げます。逆に気円斬を気円斬で防ぐ場面は、少なくとも私は知りません。
 毒は医療忍者の解毒剤などで防げることもあります。惑星破壊は、対策としてドラゴンボールによる修復がありますが、回数が限られます。
 屍鬼封尽はのちに解除する手段が登場し、穢土転生も求道玉(ぐどうだま)による再生出来ない攻撃が登場しました。
 写輪眼は生まれつきの能力である血継限界や、並外れた体術はコピー出来ず、幻術はさらなる幻術や周りからの助けや痛みにより対処が可能です。
 そして、劇中の忍者はそれらの対抗手段を「つまらない」、「卑怯だ」とはあまり言いません。それらの多様な手段も含めて「総合的な実力」だとみなすのです。 
 つまり、『NARUTO』の世界では、ある「多様な」術や攻撃が登場しても、それに対抗する「多様な」術や防御が登場して状況を保つ「線形性」があり、それがインフレーションの中で、「この人物は総合的な実力が高いから今後も活躍し続けるだろう」という予測や期待をしやすくします。その多様性を身に付けた上位の忍などが活躍しやすいのです。
 『ドラゴンボール』では、たとえ孫悟空の原作での最強の姿である超サイヤ人3でも、はるかに前のクリリンの気円斬やフリーザの地球破壊に対抗出来ない可能性があります。
 逆に超サイヤ人3より強くなった時点の魔人ブウの地球を爆破しようとした攻撃に、悟空は通常形態で背後から気円斬を使って防ぎました。
 『NARUTO』のカカシは道具の扱いや術の知識や写輪眼の扱いから、終盤まで相手の弱点を突くことでインフレーションに追いつけたのであり、それが物語を「シリアスに」盛り上げます。
 
 

人物の役割に応じた予定調和

 逆に、そのような連鎖で途中までは活躍出来るものの、止まってしまう人物もいます。
 たとえば、サスケの「蛇」及び「鷹」小隊の香燐や水月や重吾は、それぞれサスケの復讐に加担したり、カブトの能力に利用されたりしました。
 しかし香燐は「嘘を見抜く」能力を持ち、仮にこれがサスケの活動に関わるイタチやトビやゼツに対して全力で使われれば、のちの物語を大きく変えて、「話を盛り上げるシリアスさ」を覆して滑稽にしてしまう可能性がありました。また、香燐はナルトの母親の親戚でしたが、それがあまり関わらなかったのも、予定調和だと言えます。カブトの能力に「嘘を見抜く」能力まで加われば、さらに物語を揺るがした可能性も否定は出来ません。
 水月と重吾は、それぞれの知り合いの忍刀七人衆や君麻呂が穢土転生されており、関わっていれば、のちに大蛇丸の復活や綱手の治療に貢献しなくなり、戦況を変えていた可能性があります。
 しかし、それらの変化は作品の流れに反するでしょう。
 また、ナルトの同期やそれに近いヒナタ、キバ、シノ、シカマル、いの、チョウジ、テンテン、リー、ネジ、サイは、十尾に立ち向かうまでが活躍の限度であり、無限月読でまとめて拘束されるか、それ以前に死亡するかでした。
 マダラとの戦いにリーが体術で対抗した程度であり、テンテンやサイの封印はタイミングの関係で失敗しました。マダラ以後のカグヤは白眼を持ち、ナルトの影分身を見抜けませんでしたが、ヒナタやキバが偶然無限月読から逃れ、ヒナタの同じ白眼やキバの影分身が貢献するのは、物語の外部の視点から難しいでしょう。冷たく言えば、盛り上がりに欠けます。
 そして、主人公のナルトは「意外性ナンバーワン」と言われ、相手の術に確かに「意外性のある対抗手段」を編み出します。
 しかしむしろ、ナルト以外の忍者がそれに惑わされる予定調和が働いているとも言えます。
 ナルトはその意味で、成長はし続けていますが、総合戦力の高い「運命」があるとも言えます。それが、ナルトとサスケの対をなす「導き」であると、終盤で判明しました。
 つまり『NARUTO』では、物語の時間や敵の役割に応じて、相応の重要な役割を果たせない、あるいは別の行動をしてしまう可能性のある人物が全力で活動する偶然に恵まれない予定調和が働き、それが物語の「線形性」になります。
 のちにナルトの妻となるヒナタはともかく、多くの人物はどの集団に属するかなどで、対応関係が決まっており、それを崩しにくい、数学的には「対称性」があります。
 その「線形性」、「対称性」がもたらす「シリアスな」盛り上がりもあるはずです。しかし『ドラゴンボール』は『NARUTO』に比べて「コミカルな」変化もあり、それは重要な役割を果たしていた人物がいつそうでなくなるか分からない「非線形性」があります。
 『NARUTO』のような物語は、「叙事詩」に当たるのかもしれませんが。そして『ドラゴンボール』は「小説より奇なる事実」をコミカルに描ける可能性があるとも言えます。
 

『銀魂』はコミカルな予定調和もある


 『銀魂』は基本的にコメディなので、ゲストキャラクター以外はほとんど死なないなどの予定調和が働きます。『マンガで分かる心療内科』も物語の外部からの視点の多いギャグ漫画として、「人が死なない」予定調和があると認めています。
 さらに、実際の歴史に基づく展開も起きやすいと言えます。
 また、最終章や坂田金時のエピソードなどのために、それまでの登場人物が集大成のようにまとまる展開を繰り返す部分もあります。
 それは、『NARUTO』と比べて『ドラゴンボール』寄りの、一見重要と思えないキャラクターや用語がコミカルに役割を果たす非線形性もあります。
 けれども、それは権利ではあっても義務ではありません。
 たとえば『銀魂』の考察本では、最終章の予測で、複数の人格を持ち地球上では不死身のラスボスの虚に、それより前のギャグとして登場した「魂を入れ替えて一部を分裂させる作用を持つ」「全自動卵かけご飯製造機」が使われるか、と推測する記述がありました。
 しかし、他にも魂を扱う要素は、幽霊のいる旅館や定食屋の主人の葬式などにあります。また、竜宮城で生物を老化させる薬品も登場しました。さらに、別の惑星に尾美一がワープさせられたこともあります。時間を止める時計も登場しました。
 それらが虚に対抗する展開になるのは、権利ではあっても義務ではありません。物語をコミカルにし過ぎないように、そのような特殊な仕掛けが登場しない、ある程度の「線形性」があります。
 『ドラゴンボール』は、『銀魂』に比べてキャラクターの死も起きやすいシリアスさはあり、それは逆に予定調和を崩します。しかし、重要な役割を果たした人物がそうでなくなるコミカルさは『銀魂』と『ドラゴンボール』に共通します。
 さらに、『NARUTO』のように、人物の対応関係、数学的に表現すれば「対称性」があります。
 妙、九兵衛、月詠、猿飛の4人、銀時、桂、高杉、坂本の4人、神楽、沖田、神威などの対応、土方と銀時、近藤と桂などの対応も繰り返されます。それが描きやすいためでしょう。
 『ドラゴンボール』では、そこまでの対称性はありません。


『ヤマト』や『エヴァ』の人物関係

 次に、私が注目する中では、『新世紀エヴァンゲリオン』と『宇宙戦艦ヤマト』にも予定調和があります。
 『ドラゴンボール』と『新世紀エヴァンゲリオン』の共通点も無視出来ませんが、相違点は『ドラゴンボール』のカオスを示します。


2022年2月25日閲覧
 『宇宙戦艦ヤマト』では、軍人の自己犠牲が貢献するのが繰り返されます。これに対して、『新世紀エヴァンゲリオン』の考察本では批判的に扱っています。
 比較しますと、『エヴァ』ではジェットアローンの事件でのミサト、ゼルエル戦でのレイなど、自己犠牲が必ずしも貢献しません。
 しかし『ヤマト』でも『エヴァ』でも、「物語をシリアスに盛り上げるために重要な役割を果たす人物に、役割の小さな人物が大きな影響を与えない」予定調和があります。
 つまるところ、組織の上司、あるいは主人公などの中心人物の行動や立場に害が出にくいのです。


ゲールの予定調和

 たとえば『ヤマト2199』では、ガミラスの宇宙人の軍において、上司に媚びて部下に当たり散らす傾向のあるゲールの言動が一つの例となります。
 ゲールの部下のシュルツが現場で、総統であるデスラーの発案したガスと共にヤマトに立ち向かい、ヤマトの罠でガスが太陽に分解されると、ゲールは「それを放置したシュルツが悪い」とだけ怒り、シュルツもそれに無言で通信を切りヤマトに捨て身で戦いました。
 ゲールもシュルツもこの時点でデスラーの立場を悪くする発言をせずに、『2199』の最後にデスラーが破滅するまでの盛り上がりに貢献しています。このような言動が『2199』では繰り返されます。
 ゲールは、上司のゼーリックの下でヤマトの攻撃に対して比較的順当な対策を取ろうとして、ゼーリックの力任せな命令に逆らえませんでした。その最中にデスラーをゼーリックが裏切っていたと判明し、弁解を聞かずに射殺し、そこで反撃してきたヤマトに動揺する役割を負うことになりました。
 しかしそれは、本来ゼーリックが動揺すべきところを、ゲールの忠誠心と短絡的な姿勢が、ゼーリックにヤマト対策の危うさの責任を取らせず、ゲール自身に与えた予定調和が働いたことになります。何故ならば、そのようにややコミカルに慌てる役割をゲールが果たすのが『2199』の展開を盛り上げるためです。
 また、地球の軍では、若くしてヤマトの航海長になった島大介の死んだ父親の部下であり、島より年上であるものの立場が下になった山崎は、ガミラスとの接触で迷うことになりました。
 ガミラスの兵士の証言から判明しましたが、本作ではガミラスに対して過剰に警戒した地球軍の命令で島の父親を含む兵士が先制攻撃をしたために戦いが起き、地球側は山崎などに緘口令を敷いていたのです。
 それを破り島に伝えた山崎は、それでも彼を出来る限り苦しめないように、「我々が戦端を開いてしまった」、「あなたのお父様は最後まであなたのことを考えていた」と表現しており、かなり苦しんでいたようでした。
 これも、物語の重要な役割を果たす人物に影響を及ぼす言動をしにくい予定調和があります。


アスカ・ラングレーの予定調和


 『エヴァ』では、たとえばアスカ・ラングレーが上司の碇ゲンドウとほとんど会話しないのが重要です。テレビアニメ版では、陰口程度です。
 アスカはゲンドウの息子のシンジや「ひいき」されていると認識したレイには大きな態度ですが、トウジが参号機に捕らわれたときに、トウジがパイロットであることをシンジが知らないことを直接批判したものの、結局救うための責任をアスカが果たすことは出来ませんでした。
 また、アスカはゲンドウに従順なレイに「あんた、碇司令が死ねって言ったら死ぬんでしょう」と糾弾したものの、アスカ自身は直接逆らえるのか、と言われると微妙なところがあります。そもそもアスカとゲンドウの直接の会話がほとんどないためです。
 それらは、登場人物の気性や地位に応じて、批判的な台詞を言いにくい、接しにくいなどの予定調和が働いているのです。あるいは「論理的に必要な恥」をかきたくない感情を守っています。
 また、トウジを助けられるかの選択をシンジなどが迫られるのも、ある種の予定調和だと言えます。
 ゲンドウは停電のときに、力仕事をする「論理的に必要な恥」をかいたものの、暑さをしのぐために隠れて席で足を水に入れるのを部下の伊吹マヤに気付かれないという、コミカルさをある程度までに抑える展開があります。
 また、マヤはリツコへの同性愛のような感情がみられ、ある意味でゲンドウはマヤが嫉妬すべき存在だったのですが、特に劇中で触れる機会はありませんでした。これは日向マコトと加持にも当てはまりますが。
 また、冬月は相手に厳しい場面が多いのですが、大学教員だった頃やセカンドインパクトの責任をゲンドウに糾弾したとき、ゲヒルンに勤めてユイやゲンドウと共に活動していたときのことから逆算しますと、人間に優しく接したり周りの苦難を嘆いたりすることもあったはずです。直接それを描写しないことで、冬月を周りにさらに厳しく思わせる予定調和があります。
 アスカがゲンドウに、マヤがゲンドウに批判的な言葉を直接言わないなどは、物語のシリアスな盛り上がりなどを保つ予定調和です。
 『ドラゴンボール』では、天津飯やピッコロやベジータが徐々にコミカルに変化していくのが、予定調和を崩しており、それは何らかの恥を必要に応じて受け入れていく論理性があります。現実において論理的に存在する「非線形性」を認めていると言えます。

まとめ

 これらをまとめますと、『ドラゴンボール』は、ある影響が強さのインフレーションなどで拡大していくのと、プラスのつもりの影響が敵の強さにより反転することもある「塞翁が馬」、物語をシリアスに盛り上げるための重要な人物や要素がそうでない人物や要素に大きく影響を受けることもある非線形性、非対称性が、カオス理論に似た「どうなるか分からない」状況を生みます。
 『NARUTO』は能力の多様性やシリアスさによる線形性や対称性が強く、『銀魂』は歴史やギャグによる予定調和があります。
 『ヤマト』や『エヴァ』は人間の気性のシリアスさや人間関係による、発言のタイミングなどの調整がされています。
 正確には、これらの物語にも展開、事実としてのカオスはあるかもしれませんが、それを認識する推測やその善し悪しを考慮する意見としてのカオスの要素は『ドラゴンボール』と『JIN』が強いと言えます。

 予定調和を否定する『ドラゴンボール』は、何が起きるか分からないことを認め、必要なコミカルさも認めるカオスな、ある意味で現実的な未知の部分に対応する論理的な謙虚さがあります。


参考にした物語


漫画
鳥山明,1985-1995(発行期間),『ドラゴンボール』,集英社(出版社)
岸本斉史,1999-2015,『NARUTO』,集英社(出版社)
空知英秋,2004-2019(発行期間),『銀魂』,集英社(出版社)
村上もとか,2001-2010,(発行期間),『JIN-仁-』,集英社(出版社)
カラー(原作),貞本義行(漫画),1995-2014(発行期間),『新世紀エヴァンゲリオン』,角川書店(出版社)
ゆうきゆう(原作),ソウ(作画),2010-(発行期間,未完),『マンガで分かる心療内科』,少年画報社(出版社)


テレビアニメ
伊達勇登(監督),大和屋暁ほか(脚本),岸本斉史(原作),2002-2007(放映期間),『NARUTO 』,テレビ東京系列(放映局)
伊達勇登ほか(監督),吉田伸ほか(脚本),岸本斉史(原作),2007-2017(放映期間),『NARUTO 疾風伝』,テレビ東京系列(放映局)
藤田陽一ほか(監督),下山健人ほか(脚本),空知英秋(原作),2006-2018(放映期間),『銀魂』,テレビ東京系列(放映局)
庵野秀明(監督),薩川昭夫ほか(脚本),GAINAX(原作),1995-1996(放映期間),『新世紀エヴァンゲリオン』,テレビ東京系列(放映局)
西崎義展(原作),出渕裕(総監督・脚本),2013,『宇宙戦艦ヤマト2199』,TBS系列(放映局)

テレビドラマ
村上もとか(原作),石丸彰彦ほか(プロデュース),森下佳子(脚本),2009,『JIN-仁-』,TBS系列(放映局)
村上もとか(原作),石丸彰彦ほか(プロデュース),森下佳子(脚本),2011, 『JIN-仁- 完結編』,TBS系列(放映局)

アニメ映画
庵野秀明(総監督・脚本),摩砂雪ほか(監督),2007,『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』,カラーほか(配給)
庵野秀明(総監督・脚本),摩砂雪ほか(監督),2009,『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』,カラーほか(配給)
庵野秀明(総監督・脚本),摩砂雪ほか(監督),2012,『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』,カラーほか(配給)
松本零士(原作),舛田利雄(監督),藤川桂介ほか(脚本),1977,『宇宙戦艦ヤマト』,西崎義展(株式会社アカデミー・配給)
松本零士(原作・監督),舛田利雄ほか(脚本),1978,『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』,東映(配給)
松本零士(原作),西崎義展(総監督),山本英明(脚本),1979,『宇宙戦艦ヤマト 新たなる旅立ち』,フジテレビ・アカデミー(制作)
松本零士ほか(原作),松本零士(監督),舛田利雄ほか(脚本),1980,『ヤマトよ永遠に』,東映(配給)
松本零士(監督),山本英明ほか(脚本),1981,『宇宙戦艦ヤマト3』,ウエスト・ケープ・コーポレーション(製作)
松本零士(原作),西崎義展ほか(監督),山本英明ほか(脚本),1983,『宇宙戦艦ヤマト 完結編』,東映(配給)

参考文献

宇野常寛,2011,『ゼロ年代の想像力』,早川書房
山口昌哉,1986,『カオスとフラクタル』,講談社ブルーバックス


丹波敏雄,1999,『数学は世界を解明できるか:カオスと予定調和』,中公新書
米沢富美子,1995,『複雑さを科学する』,岩波書店
森肇,1995,『カオス 流転する自然』,岩波書店
著者/J.ブリッグス+F.D.ピート,訳者/高安美佐子+山岸美枝子,2000,『バタフライパワー-カオスは創造性の源だ―』,ダイヤモンド社
結城凛,2017,『DIA Collection 大江戸かわら版 銀魂 徹底考察』,ダイアプレス
エヴァ分析特捜部(著者),結城凛(編集兼発行人),2012,『DIA Collection ヱヴァンゲリヲン都市伝説』,ダイアプレス
エヴァ分析特捜部(著者),結城凛(発行人),2020,『DIA Collection 「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」補完研究』,ダイアプレス


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