建設的なネガティブと自滅的なネガティブについて

ネガティブ思考。悩んでいる人も多いですよね。
何を隠そう自分も結構、ネガティブです。というか相当ネガティブです。

ですが、多くの人のそれとは少し違います。
ネガティブな思考も正しく使えば建設的なものになります。
今日はそこんとこをお話します。

「自滅的なネガティブについて」

私は強迫的なネガティブ思考のこと「自滅的なネガティブ」と呼んでいます。簡単に言い表すならこうです。

「もし〇〇が起きたらどうするんだ!!!」
「〇〇なったらどうするんだ!!!」

このフレーズ。よく親御さんがお子さんに使う表現です。

「落ちたらどうするんだ!」
「怪我でもしたらどうするんだ!!!」
「転んだらどうするの!?」

なんて叱咤は巷でよく耳にするフレーズですよね。
でもこれが自滅的なネガティブの元凶だとわたしは思ってるんですよ。

いいですか。
木から落ちたら怪我をします。
怪我をしたら、病院に行けばいいんです。
転んだらまた立ち上がればいいんです。

たったそれだけの事を世のお父さんお母さんは子どもたちを脅迫的に迫るのです。怒られた子どもは思考が停止します。
これを何度も繰り返されるとちょっとやそっとの危険でもこの母の怒りを思い出し、危険を目の前にしたときに思考停止してしまうようになるのです。

心理学でいうある種の自動思考と似た「思考の自動停止」とも呼べましょうか。

実際に強迫性障害まで行かなくてもこの刷り込まれた恐怖感に悩んでいる人はこの世に大勢います。

「恐怖を目の前にすると思考が停止してしまう」

人生というのは常にリスクや危険と隣り合わせの連続です。

明日、会社をクビになるかもしれません。
火事ですべてを失うかもしれません。
いきなり大地震が来てインフラがすべてストップするかもしれません。

先程の強迫的思考で考えればこうです。

「もし明日クビになったらどうしよう…」
「もし火事になったらどうしよう…」
「寝ている間に地震が来たらどうしよう…」

こう考える人はだいたいここで思考が停止してしまいその先にいけません。
この状態で立ち止まり続けることを世の中では「ネガティブな状態」と言い表していると思います。

ただ、脅迫的な概念を捨て去るとこう考えることもできます。

「明日もしクビになったとしたら、どう生きていこう?」
「もし火事が起きたとしたら、どう逃げればいいだろう?」
「地震が来たら、どう逃げてどこに避難しよう?」

大抵の人は「実際に起きたこと」に恐怖しているのではなく「頭の中の空想の恐怖」に怯えているのです。それは親御さんが存在もしないおばけを使って子どもを怯えさせるように、起きてもいない事で脅迫された結果、それが自動思考として脳に焼き付いてしまっている場合、特にその空想の恐怖というのは発動しやすくなります。

「ネガティブも仮説に使えば大いに役立つ」

ネガティブというのは本来、仮説設定にこそ使うべきなのです。
わたしは常にこの方法を取るように勧めています。
例えば先程の「木から落ちたらどうするの!!!」というような親御さんの怒りも本来は仮説として子どもに諭すべきなのです。

「〇〇くん、もしこの木から落ちたらどうなると思う?」

親から子への教育の場であればこのように子ども自身に考えさせるべきなのです。これは親から子への仮説提案です。
子どもは考えます。

「痛い」
「怪我する」
「泣く」
「どうやったら落ちないように登れるのか」

など、子どもはあらゆる可能性を考えます。
仮説を与え、考えさせる。子どもと言うのは問題を与えてあげると以外にも真剣に考えますし私たちが思っている以上に子ども達は考える力を持っています。これは大人でも一緒で人は質問されると答えを出したくなる生き物なのです。もし教育の場であるならば子ども自身に考えされることこそが真の教育です。そういう意味で言えば、ただ脅迫的に子どもの行動を抑制している親御さんの発言はとてもでではないですが「教育とは呼べない」とわたしは常々思います。

こうした親御さんの元で育った子はネガティブな発想を建設的な思考のために正しく活用できません。実際、わたしもそうでしたがわたしはとにかく言い返しまくってましたから、比較的早い段階でこの罠から抜け出せました。

母「〇〇になったらどうするんだ!!!」
わたし「じゃあその状況にしてよ。今すぐ解決してあげるから」
母「なったらどうするんだ!って言ってるの」
わたし「いやだから、なったらその解決方法を教えるからその状況にしてよ」

母「怪我したらどうするの!」
わたし「怪我?そりゃあ治すよ。」
母「お金かかるでしょ!」
わたし「痛みを知ることがそんなにも悪いことなの?」
わたし「というかほら、怪我してないじゃん。それってあくまで可能性でしょ?そんなこと言ったら何もできねぇよ。」

わたし「財布無くした」
母「どこで無くしたの!?」
わたし「いや母さん、それが分かったら苦労しなくね?こういう時はとにかく思いつく限りの場所を想定して探すのが一番なんだよ。ほらあった。」

中学生くらいの時からこんな問答を繰り返してきたお陰で今ではちょっとやそっと脅されても動じなくなりました。

あれだけ反射神経の良い猫でも恐怖を目の前にすると、その恐怖で身動きが取れなくなります。母親や父親から空想の恐怖を与え続けれてきた子どもというのはこの「空想の恐怖=仮説的なネガティブ」でも身動きや思考ができなくなってしまうのです。
この心理こそわたしが「自滅的なネガティブ」と読んでいるものの正体です。

では、次はその逆を紹介しましょう。

「ネガティブを仮説検証に用いる」

先程申し上げた通りネガティブも仮説的思考に用いれば最大のリスクヘッジ要因になります。
失礼ながらどこの社長さんが言っていた言葉か失念してしまったのですが、

「最高の時は最低を想定し、最低のときは最高を想像する」

まさにこの言葉通りで上手く行っているときほど実はネガティブな思考や仮説というのが重要になってくるのです。
だいたいにおいて、これが出来ない人は調子に乗って必ず失敗します。かく言うわたしもそうでした。良いときに調子に乗って最悪を想定しない。だから少し状況が悪化すると対応できない。こんな事を繰り返してわたしも今は正しいネガティブ思考が身につきましたがどんなに良い時でもネガティブに考え、最悪を想定する事はものすごく重要な事なのです。当然、万が一の事も想定します。皆さんも経験があるかと思いますが1/1000000だと思ってたのに実際に起きた、なんて事はザラにありますから万が一の最悪も想定します。そうやって常日頃から自分の都合の悪い状況を想定して行動していると、だいたいの不都合は乗り越えられるのです。
この思考法こそがわたしが「建設的なネガティブ」と呼んでいるものです。

「ネガティブな思考の先にあるもの」

正しいネガティブ思考には常に「その先」があるのです。
想定したネガティブな現象に対しての仮説検証が行えるからです。

Q.明日もしクビになったらどうしよう?

A.このご時世、可能性は0ではない。だから常日頃から貯金をしておこう。
A.失業保険はどれくらいで給付されるのか調べておこう
A.今のうちに転職サイトに登録をして市場の反応をみておこう
A.国の補助で使えるものはないか調べておこう
A.派遣や短期でできるアルバイトを登録しておこう

などなど、仮説として捉えれば対策はいくらでも思いつきます。

しかし、先に紹介した母親からの脅迫的問答には「先」がありません。
要するにあのような言葉は単に「子どもをコントロールしたい」という思いであったり、自分が子どもを心配に思う感情をただそのままぶつけているだけで決して建設的な問答ではないからなのです。ただ子どもの行動を抑制したいが為に半ば脅しているだけだからなのです。

親からの脅迫的問答を成人した後でも自身の思考のベースに置いてしまっている人は「建設的なネガティブ仮説検証」が出来なくなってしまいます。「ネガティブな仮設」を「本物の恐怖」と感じるように刷り込まると人は起きてもいないことでも本当の恐怖に感じてしまうようになるのです。

※細かく言うとこの場合の「恐怖」というのは起きたことに対して恐怖を感じているのではなく、「親から脅迫された」ときの恐怖が蘇っているだけなのです。

ネガティブ思考と言ってもそれも所詮は「仮説」であり、思考の域を脱しません。事実では無いのです。なのに脅迫的な思考を植え付けられた人はネガティブな仮説に対しても母親からの脅迫が心に蘇り、恐怖が心を支配してしまうのです。そうなると車を目の前にした猫同様、身動きが取れなくなってしまうのです。

「クビになったらどうしよう…」

で思考が止まってしまうようになってしまうのです。
この「どうしよう…」で思考が止まってしまうと言わずもがな「建設的なネガティブ思考」はできなくなってしまいます。
そして「ネガティブな事を考えたくない」といったようなどこか現実逃避的な思考も同時に強くなります。(わたしも一時期そうでした。)
この親からの脅迫的な思考が強ければ強いほど精神障害・疾患も患いやすくなります。何故ならその人の心は基本的に恐怖で支配されているからです。
他者に対して脅迫的であるか、自身に対して脅迫的であるかは結果こそ違えどその中身は大差ありません。いずれにせよ多くの場合「親から脅迫的に教育された経緯がある」というのが大半だと思います。

「脅迫的な人々について」

また、人を恐怖で支配しようとする人の多くもその人自身が心の中で脅迫的な思考に攻め続けられている場合が多いのでそういう人にはなるべく近づかない事が賢明です。
心理的に健康な人は恐怖を正しい方法で使用することができる人たちです。
正しい方法というは先程申し上げた通り「建設的なネガティブ」に不安や恐怖を活用する人たちです。それとは逆に脅迫的であったり人を支配する為に恐怖を利用する人がいたら絶対に近づかない方が身の為です。
建設的なネガティブが身に付いていれば相手の言っている事がただの妄想であることを指摘する事もできますが、大抵の人は他者に対して意見することを躊躇うと思いますので、そういった人とは距離を置くことが最善の選択です。

「脅迫的な人々には心の扉を閉じて接する」

これも自分以外の人が脅迫的だった場合の対応策なのですが、もし身近な人が脅迫的だった場合は「心理的な心の扉」を閉めることをオススメします。
どういう事かと言うとその人との心理的な関係を可能な限り、シャットダウンするのです。例えばその相手が上司であるならば

「企業(きぎょう、英: business)とは、営利を目的として一定の計画に従って経済活動を行う経済主体(経済単位)である。だからこの上司と自分の関係はただ企業の一員として利益を目的として集まっているに過ぎない。」

といったように感情的な想いの一切を捨ててその本来の目的に立ち返り、ドライな考えを持つことで心理的距離を置くようにするのです。
人としての温かみも重要ではありますが、自分の身を守る為にはドライな感情も非常に重要です。大事なのはどちらかに寄るかではなく、その間でバランスを取ることが重要なのです。

ちなみに言うとこのドライな思考や感情を持っていないと企業や上司に食い潰されることが多々あります。特に女性においては優しさが常に勝ってしまうようだと自分自身がずっと辛い思いをし続けることになってしまし、結果的に精神疾患を患う、と言ったケースをたくさん目にしてきました。

なので自分の心や思考にドライな部分がない、と思う人はこれを機に「ドライな思考」を持つ試みをしてみるのもいいかと思います。

ということで今回は建設的なネガティブ思考と自滅的なネガティブ思考についてお話でした。

わたしが思うにこのような思考によって自由な発想ができなくなってしまっている人がこの世の中の大半を締めていると私は思っています。
その原因を探れば子を育てる母親自身に現代社会的な強いストレスがのしかかってしまっている結果、そのストレスが子どもに向いてしまい、イライラや負の感情が言葉に乗り移ってしまうのがその根本的な原因なのではないかとわたしは推測しています。

「〇〇くん、もしだよ。もしこの木に登って落ちたらどうなっちゃう?」

そう優しく問いかけられる心の余裕があれば、脅迫的な思考が身に付くこともないのでしょうが、これもまた社会の見えざる問題だと私は強く思います。

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