見出し画像

『完全無――超越タナトフォビア』第五十二章

科学にしろ一般的な思想にしろ宗教にしろ、反常識的・本来的に、つまり非頽落的に鑑みるならば、位置や大きさや向きなどをあらわす量、ここで片仮名を敢えて使用するならば、スカラー(大きさのみを持つ概念で、座標のシステムに拘束されない量)、ベクトル(座標のシステムにおいて大きさと向きを持つ量)、テンソル(古典的に捉えればベクトルの多次元配列化のことであり、テンソル内の個々の成分は座標変換の影響を受けるが、テンソル自身はいかなる座標系にも依存しない、という概念のことであるが、詳しいことは数学者か物理学者に訊ねていただきたい。

「学」の種類によって、また同類の「学」の中であっても幾種類かの解釈が可能な代物であり、この作品においては、詳しく説明せずとも問題はない。

なぜなら、テンソルであろうとなんであろうと、分節化された数学的概念とは、「世界の世界性」に着陸するためのロケットを推進するための、核分裂炉にも核融合炉にも根源的には成り得ないからである。

そして、「世界の世界性」へのプロセスとしてわたくしが推奨するのは、スカラーからベクトル、ベクトルからテンソルという方向性を逆流させて、スカラー以前性へと哲学的に思惟を還元していくことであるが、ともかくテンソルのような、「場」を形成する類いの概念)、といった「世界の世界性」に反旗を翻すような知を、「世界の世界性」はあらかじめすでに拒否しているのだ。

人間たちの愛の革命、愛とは結合から分離、分離から結合への遊泳であるが、それすら相手にしない世界というサムシング・グレート。

【理】とは、数学的真理の先の得体の知れない「なにものか」としての世界、そのような世界に迫るための体感である。

これまで、人間たちは個物を個物から解放するために、というよりは個物を個物へと緊縛するために、頽落的実験の積み重ねとして、あらゆる事物を大きく捉えたり小さく捉えたり、微分可能・積分可能なあらゆる角度から視線を投げ込んだり、拡大したり縮小したり、回転移動させたり対称移動させたりし過ぎたのだろう。

「世界の世界性」は、有界でも非有界でもなく、閉区間でも半開区間でも開区間でもない。

とある個物が、とある全体性をかたちづくることはないし、とある個物が連続的に並ぶということもないし、とある個物が離散的に並ぶということもない。

有限などという、無と接するなにものかをもって静的に世界をあらわすことはできないし、無限などとい、う無を有によって塗り固めてゆく動的な概念も「世界の世界性」ではない。

そのような、人間による人間のための分別性とは、「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」というアリストテレスの予言の成就による呪縛であり、人間たちの狂騒の歴史へと導いた、本能的な糧というものだろう。

現実の四方八方に添え字を付けて、現実をリアルな軸だけでなく、虚ろな軸を援用してまで多重な観点から定義すること、そして、あらゆる公理のパズルゲームを多元的に複雑にすることで、矛盾を克服してゆく作業、そのような隘路の中に隘路を幾度も見つけ出さねばならない、というマゾヒスティックなマナーを、人間たちは尊重する、いや、快楽としておもしろがってしまっっているのだ。

前-最終形真理の範疇内の仮説であるところの「進化論」に思いを馳せるならば、あらゆる生き物の中で最も頽落していないのは、原初の単純な生命体に違いない。

人類に限って言えば、最初の人間、すなわち前-人間体が現-人間体へと移行したその瞬間に生きた人間こそが、最も【理(り)】に近かったのかもしれない。

人間たちの分別臭さは、歴史的、時計的時間とともにその重量を増し続けてきた。

たとえば、あらゆる「学」の分岐化、あらゆる知識の細分化、そしてあらゆるプロセスの相対化。

世界を宇宙ということばで矮小化して、その宇宙は大きいのか小さいのか騒がしいのか静かなのか、膨らんでいるのか萎んでいるのか、数はいくつなのか、それとも唯一の存在なのか、などといったふうに、良心的かつ道徳的に問いを発し続けるためだけに、真理という馬車馬に繋がれた馬車馬となってのたうち回っている。

馬車馬はさらに馬車馬を繋ぎ、その繋縛は緊縛であることで活路を見出さざるを得なくなり、形而上学/形而下学、唯心論/唯物論といった対義への志向と、その対義への懐疑によって、「世界の世界性」を真理とすり替えることに終始してきた人間たちがいるのも確かなことである。

「世界の世界性」を隠蔽したまま真理を主張し、あたかも常識的な真理こそがタナトフォビアとしての死の淵源的恐怖からの救済であるかのように誤解し続けている人間たち。

死への不安をごまかすことなどできなかった人間の歴史の中で、人間たちは短絡的な誤読によって騙され続けたまま、生物学的にその生を終えることが多いのである。

人間たちへの警告としてこの作品はある、と言っても大げさではないだろう。

無相関でありながら独立しているだとか、確率論的にふたつの事象は独立しているだとか、そういった定義が人間たちは好ましいと決めて掛かっている。

だがしかし、そういった客観的な位相からの眺め、まやかしとしての現象への主観的な眼差し、といった認識論的ポーズを決めることは、現象を相対的に混線させ、世界を絶対的に不正確にする関数としては有効かもしれないが、「世界の世界性」としての完全無-完全有という観点からすると、まったくもって無駄なシチュエーションである。

知としても非知としても成立し得ない、しかも、神秘的になにかを秘匿しているわけでも、非神秘的になにかを露出しているわけではない、「世界の世界性」という体験を体感することこそが、認識論的大転回かつ存在論的大転回という礎(いしずえ)のための肝心要の作法である、とわたくしは言いたいのだ。

非頽落的ディープ・ラーニングこそがわたくしたちの課題であり、それは、あらゆるアルゴリズムにおける分枝を刈り取り、あらゆる最短経路を無効化する手続きであり、あらゆる順序や、あらゆる並べ方を全般的に排除してゆく、地道な認識論的、存在論的メンテナンスなのである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?