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『完全無――超越タナトフォビア』第七十一章

さてここで「荼毘に付す」ということについて少し触れておきたい。

わがニッポンにおいては現在「荼毘に付す」とは、人間たちを火葬に付す、ということであるのだが、ダイオキシンなどの発生を抑制し、骨を燃やし切ることのない程度の温度に設定されている。

火葬場における煙突の設置が内的であろうと外的であろうとも、遺体はともかく小さいモノへと強制分解させられる。

人間たちは燃やされることで、自らの骨とも別離することとなるのだが、たとえば、分解された個々の物質のひとつひとつにカメラを設えて外界を映してみたら、大変に興趣のある存在論的映像が得られるのではないだろうか。

原子レベルの物質がより小さいモノに分裂するたびに、そのカメラも小さくなり、素粒子レベルであろうと何粒子であろうと機能する(粒子の感覚器官として、つまり粒子に埋め込まれた人工的な遺伝子による発現による)カメラが必ず受け継がれるような技術があれば、とことん興趣をそそるはずだ。

素粒子そのもが外乱無き観察者となるようなシステムによって、未来の存在論的シミュレーションは格段にクールになるはずである。

とある人間が、物質として散り散りにされた存在者たちとなって世界にばら撒かれる、その行く末、そして、それらの存在者たちが未来を形成してゆくプロセスのすべてを観察できるならば、人間という存在者が荼毘に付される、というありふれた失意の光景にも希望の存在論が垣間見られることとなるのではないだろうか。

現存在としての人間、つまり存在論的カテゴリーに属していた存在者が、分裂した超現存在へと変貌を遂げるだけであって、荼毘に付されたとある人間は、無に帰する、ということはできない。

彼は、宇宙において何かしら振動する存在として、彼の周囲に充満する何らかの存在者たちとコミュニケーションせざるを得ない、という事実にありありと直面させられることだろう。

そのようなシミュレーションに対して非遺体としての人間たちは厳然と理解に及ぶことができるはずである。

つまり、物理学的・化学的に追究可能である、ということだ

もちろん、科学に依拠したシミュレーションとはすべて前-最終形真理の範疇という掌(てのひら)の上で転ることしかできぬ認識論ではあるのだが、そのような限界のある思惟であっても、浅はかな誤読による愚かな死生観によって、自らを欺いたまま生物学的に死んでゆくだけの、一部の人間たちの死生観というものを、すべて焼却できるほどの火力が、前-最終形真理にはある、ということは確かなことではあるが。

わたくしは、いやこの作品に関わるすべての存在者たちは、そのような頽落から逃れることに勇気を奮うことができると信じているし、そのように在りたいはずである。

原子レベルという限局的な位相で、という妥協を許すならば、科学の力で近い将来、実現可能、つまり原子のあらゆる挙動を、死後のすべての時間に渡って視認することくらいは可能となるのではないだろうか。

とある人間の死後のすべてのモノの挙動を確認しデータ化するという統計力学的なお仕事ならば、コンピュータに管理をお願いすることもできるはずだ。

そのような未来ならば到来してもおかしくはないし、善に違反するとも思えない。


ともかく、人間たちは非遺体として生物学的な誕生に先立って、かつて分裂状態という無数の存在者(それらが原子であろうと、素粒子のように量子力学的な不確定性原理によって束縛されるものであろうと)として存在していたという可逆的・歴史的事実も、すべての因果関係の確率分布内においてであるならば、たとえ精確性を欠く近似値的な事実であろうとも、逆に推測することは可能であろう。

とある人間が誕生するに当たって、それ以前のさまざまなモノやコトという存在者の絡み合いの歴史があってこそ、誕生は衝撃的な存在論的分岐点となり得るのである。

非遺体として生まれ、遺体として死んでゆくという偏重的な思惟を棄却し、誕生以前の非遺体としての自己の分裂体というものにも思いを馳せなければ、嘘である。

頽落した思惟においては存在論的考察はそもそも不可である。

人間たちの遺体の時空的循環経路に関して単純に思いを馳せるだけでもいいだろう。

科学的には自然環境のあらゆるダイナミズムとして留まることなく、存在者たちはさまざまな項として変換されゆくのみである。

遺体が分かたれてゆくことで、その分かたれたものが自然環境に自然に寄与することとなる。

すると、非遺体であるわたくしたち現存在はその循環システムに巻き込まれ、それらと一体となり、つまり遺体後の「分かたれたものたち」から供与を受け続けることで、自らも自然へと還ってゆく運命を手に入れることができるのである。

さまざまな土壌、微生物、植物、地形、空気、それらは死の粒、死の波で満たされてゆくのだが、満たされてゆくことで新たないのちが遍満する約束を「分かたれたものたち」が交わしてくれるのだ。

わたくしたち非遺体としての生き物は、あらゆる過去の遺体からつくられていると言っても、あながち間違いとも言えないのではないだろうか。

レトリックに過ぎる、と断罪するにはあまりにも愛おしい因果システムではないだろうか。

非遺体として生きている生き物は、死したあらゆる生き物をやわらかく背負っている。

そのような共存に希望がない、などと誰が言えるであろうか。


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