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「負け」に思うこと

台風の日本列島。共感した記事をちょっとシェア。

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「負け」は悪いことだ。一般的にはそう言われる。勝敗がつくものは勝ったほうがいい。勝ったほうが強い、勝つ側が素晴らしい。だからそれを目指して努力すべきだ、と人は言う。

だけどどうだろう。人間は誰もスーパーマンにはなれない。あらゆる分野で勝者になることは不可能だ。バスケのヒーローでありながら野球のプロであることはできないし(バスケ界のスーパースター、マイケル・ジョーダンは、一度野球をやったけど成果を上げられずに辞めた)、ビル・ゲイツは大金持ちだけど、人気だけならスティーブ・ジョブズに負けている。

そういう場合、負けは悪いことには見えない。単に向いていないこと、その人がしなくていいことを差し示しているだけだ。「勝たなくてもいい分野」というものが、誰の人生にもきっとあって、「負け」はそれを教えてくれるだけだ。あなたはそこで戦わなくていい、もっとうまくやれる人が他にいる、と。

だから、どこか一分野で負けたからといって、悲観することはないのだと思う。知人の男性にも、就職してから全然成果が上がらず、部署を転々とした人がいる。10以上ものポジションを経験した後、彼は営業で花開き、成績トップにまで上り詰めた。いまは人事として活躍している。会社説明をする彼のプレゼンテーションは、学生からすごく評判がよかった。

自分のことを考えてみてもそうだ。いろんな場面で羨ましい人はいる。でも彼らにはなれない。ぶりっ子で可愛くて計算高い、世渡り上手な女の子はすごい。でも自分にあれはできない。穏やかで知的で眼鏡がよく似合う、慶応上がりの知識人男性も尊敬している。でも彼にはなれない。高卒で起業し、自らアクセサリーをデザインして売っている同期もいる。自分はそういうことをしようとすら思わなかった。

そのどれも、負けと言えば負けだ。もっと世渡り上手なら、もっと知的なら、もっと行動力があればよかったかもしれない。だけど、それは自己否定する理由にはならないと思うのだ。それは私がしゃしゃり出る分野じゃないという、きっとそれだけの話で。

ありきたりな結論になるけれど、与えられたものを磨き上げていく以外に、できることは何もない。幸い、読み書き好きな体質に生まれたから、私は文章を書く。言葉が好きで、辞書を引くためなら、眠いときでも布団から出ていける。それならそうして生きるしかない。

強いて言うなら、自分に負けることが唯一、気にかけて反省するべきことなのだ。今日はそんなことを思う。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。