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世界を変えるためではなく、世界に変えられないために

「イエロー」という言葉に違和感がある。黄色人種を意味する「イエロー」だ。

「黄色」は自分にとって菜の花の色だ。レモンの色と言ってもいい。明るくて爽やかで元気になれる。そして、私の肌の色とは似ても似つかない。「ベージュ」と呼ばれるならまだわかる気がするけど、どう考えても「イエロー」ではない。

もちろん、アジア系とりわけ東アジアの人がそう呼ばれるようになった背景に、いろいろ理屈はあるのだろう。でも、それを聞いたあとでも自分の気持ちは変わらない。どう見ても、私の肌はレモンの色じゃないし、菜の花の色でもないよ。

だから何というわけじゃない。別に「ドント・コール・ミー・イエロー運動」を繰り広げて、世間に自分の考えを共有させようとか、そんな気はない。ただ私の目に世界はそう見えてない、とちゃんと書いておきたかっただけだ。「黒人」と呼ばれる人の肌も、多くは焦げ茶色に見える。「白人」も同じで、白いと言うにはずいぶんピンクがかっている。

西洋の人たちが、アジア・アフリカ系を指して「色付き(being colored)」と言うのもわからない。なら自分の肌の色は、色ではないんだろうか。彼らには、自分たちの肌が透明に見えるのだろうか。私とは違う目の構造をしているんだろうか。逆に「色なし」ってなんか悲しい感じがして、仮に神様がいるとして「神が何の色も与えなかった人」って意味になりそうだけど、それは辛くないのだろうか。

そういうことを、たくさん考えてしまう。ひょっとして自分だけが、他とは違う目を持っているんだろうか。それとも最初にアジア系を「黄色」と呼んだ人は、よほど色感に恵まれなかったのだろうか。

世間で通常いわれていることと、自分の思う事実に食い違いがある、そんなときにいつも思い出すのがアンデルセン「裸の王様」だ。

あのお話の中で「ああ王様は見事な美しい服をお召しであらせられる」と、周囲に歩調を合わせた大人の人々、私は純粋にすごいと思う。自分なら「どう見ても裸だなあ」と感じながら黙っていただろう。あの物語の最後は「王様は裸だ」と言った子どもが賛同を得て終わっているけど、実生活でもそんな風に行くだろうか。ひょっとしたら「空気読めよ」と言われて黙殺されるんじゃないだろうか。

話を戻すと、肌の色の話を聞くとき、自分の頭によぎるのはそういう違和感だ。なんか世間ではそう言われているらしいけど、私の目にはどうしても、そんな風には見えないよ。王様が裸なのと同じくらい、私の肌はイエローじゃない。

黄色人種という単語、多くの人がそれを受け入れているのは別にいいし、誰かの考えを変えたいわけでもない。誰かや何かを変えるためではなく、誰かや何かに変えられないために、これを書いている。元ネタはガンジーだ。

「あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。それは世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」。

「王様は裸だ」と言ったところで、誰も賛成してくれないことだってあるだろう。小さな子どもの叫びは、世界を1mmも変えないのかもしれない。だけど少なくとも、みんなと一緒に王様の──まるで目に映っていない──豪華な服を褒めそやすことはしないで済むわけで、それならそれで十分なんじゃないか。

誰かや何かがくれる価値観、世界のものの見方は、時々あわない服のようだと思う。自分とぴったり合っていなくて、あっちが長すぎる、こっちは狭すぎる、とズレばかりできてしまう。居心地が悪いのは、自分が悪いのでも服が悪いのでもなくて、ただ合っていないだけだ。だから、自分に合うものを考え出したり探したりすればいい。シンプルにそう思う。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。