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プロポーズの言葉

「結婚しよう」苦しげな表情で彼はいう。「ぼくはこの島から動けない、ぼくは貧乏で、シングルファーザーで、それに商売は不景気だ。きみのお母さんはぼくを嫌っているし、作家のイベントを主催させれば、どうしようもないあほたれだ」
「変わったプロポーズだこと」と彼女はいう。「あなたの得意な分野で攻めたらどうなの、A.J」
カブリエル・ゼヴィン『書店主フィクリーのものがたり』小尾芙佐訳、早川書房、2017、210頁

プロポーズの言葉ばかりを集めた短編集が読みたい。と『書店主フィクリーのものがたり』のこの箇所を読んで思う。偏屈な書店主のフィクリーが、自分の欠点を列挙しながら彼女にプロポーズするこのシーンには、主人公の(よくも悪くも)誠実で素直な側面を感じる。そして、これを書いた作家の持つイギリスっぽさも同時も感じる。

著者ガブリエル・ゼヴィンは、アメリカ人らしいが、専攻が英文学だったそうだ。あまりにもまっすぐなこの求婚のシーンも、英文学的自虐ユーモアの影響があるのかもしれない……。ちなみにこの『書店主フィクリー』は本屋大賞を受賞、日本でも広く読まれていたらしい。知人に教えられるまで全然知らなかった。

話をプロポーズに戻すと、古今東西、いろんな台詞がそこで生まれたことと思う。知っているものを挙げてみると……実家のお墓の前で「この墓に一緒に入ろう」と言った彼氏もいれば、「なあ田中、そろそろ田中と別れてくれないか」という苗字ネタもあった。「僕の隣で勝手に幸せになってください」は、プロポーズなのか?「俺の子どもを頼む」と言われた友人もいたっけ……。

その多くが男性から女性への言葉だけれど、女性からのそれももちろんある。「もう私に決めてよ」と言った人もいれば、率直に「結婚してください」だった女性もいる。これからのご時世、女性の側からのプロポーズの台詞が、もっと生まれていくかもしれない。

何かが盛り上がっていくときには、逆に盛り下がっていくものがあるもので、たぶん「幸せにするよ」「幸せにしてね」というような台詞は、だんだん消えて行くんじゃないか……。体感としては「いくら夫婦と言えど、個人と個人。自分の幸せを相手に委ねるのは少し変」と考える若い人が増えている。あるいは「結婚≠幸せ」という公式が広く普及したために、プロポーズでも「幸せ」という単語はそれほど使われていないんじゃないか。

冒頭の引用は、以下のように続く。

「ぼくにいえるのは、ただ……いえるのは、ぼくたちはうまくやっていけるということだ、誓うよ。本を読むときは、きみにもいっしょにその本を読んでもらいたい。(…)きみに約束できるのは、本と会話とぼくのハートのすべてだよ、エイミー」(同上、211頁)

幸せにするしない、ではなく、パートナーと何かを共有できることの尊さ。これが21世紀のプロポーズなんだろうか。求婚の台詞は、これからどんな風に変遷していくんだろう?

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