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不安になる前に

フランス語で「イストワール(histoire)」は「歴史」「物語」の意味を持つ。英語の「ヒストリー(history)」も「ストーリー(story)」を含んでいる。物語はたいてい、話の筋に関係あることを繋いで全体を作り上げる。

例えばヘンゼルとグレーテルは、お菓子の家に向かう途中でどうでもいい会話──「木の葉ならいっぱい落ちてるわ」「食べられたらいいのにね」とか──をしたかもしれない。白雪姫の小人たちも「今日はやたらカラスがうるさいな」なんて話をしたかもしれない。だけどそれは物語の筋に関係ないので切り捨てられる。私たちは、話を繋げる出来事だけを抜き取って、理解しやすい「お話」を紡ぐ。

そういう意味で歴史も同じだ。どうでもいいことは書かれない。織田信長の身長が何cmだったかは、天下統一には関係ないから試験にも出ない。今年の出来事だって「コロナ下でワクチン接種開始」は歴史の1ページに残るだろうけど、「3丁目の田中さん、今日も無事テレワークを終了。五時には豆腐屋が家の前を通過」みたいなことは捨象される。物語=歴史に関係ないからだ。

本当は、言葉で表せないくらいのたくさんのことが起こっている。いまこうしているうちにも部屋の空気は流動し、干した洗濯物は少しずつ乾いていて、本の背表紙は色褪せていく。道端の植物が光合成で酸素を排出し、地球は相変わらず回っていて、今日もどこかで人が死に人が生まれる。そのすべてを記述することは不可能なくらい、たくさんのことが起こっている。

だけど私たちは、今日を振り返って「何もなかった」と言ったりする。本当は無数の出来事に囲まれているのだけど、物語を前に進ませるような出来事は起きていない、そういう意味の「何もなかった」。たぶん歴史も同じように、私たちの日々の喜びや苦しみを「どうでもいいこと」として処理しながら前に進んでいく。誰がどんなに穏やかな日々を過ごしたか、そんなことはどうでもいい。ただ物語に関係あることだけが、ニュースになり教科書に載って、歴史を作っていく。

「何が語られているか」は、物語を読めばわかる。だけど、「何が語られていないか」「なぜそれが語られなかったのか」は、踏み込まなければ見えてこない。例えば「3丁目の田中さんが無事テレワークを終了」が語られないのは、ひとつには「仕事がオンラインに移行するのは珍しいことじゃない」からだし、もうひとつは「扇動的なニュースのほうが目を惹くから」でもある。これが「テレワークにも関わらずコロナ感染」だったら注目を集めたかもしれないが、田中さんが至って健康ならそれもない。

その「語られていないこと」を見ていたい、と思う。当然ながら、いまの日本ではコロナに感染していない人の方が多い。多くの人が無事に今日を過ごせたなら、そのことをまず受け止めたい。多くの人が健康で、昨日と変わらない一日を過ごし、特筆すべきことが何もなかったなら、それは「いいこと」なんじゃないだろうか。

今日も街に灯りがともっている。大学は施設を開放し始めた。仙台の湯川さんも愛知の片岡さんも無事に生きている。語られない人々は、今日も平穏に一日を終えようとしている。もちろん、苦しい状況に追いやられている人もいるかもしれないけれど、これを読んでいる人は圧倒的に「無事」なほうの人たちだろう。そして、平穏無事であることは、平穏無事であるが故に目立たない。

いまほど「物語にならない日々」が尊いこともない。特筆すべきことが何もないという幸運、誰の好奇の目にも晒されず日常が続くことの大切さが、「語られること」の背景に横たわる。悲劇的な報道で不安になる前に、平穏無事を称えたっていい、と思うのだ。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。