すべての人に与えられている

生きている人間は、それだけで幸福でなきゃならないんだ

坂田靖子『バジル氏の優雅な生活』に、そんな一節があった。それが正しいことかどうかは、わからない。すごく苦しんで生きている人もいるし、彼らはきっと死んだ方がマシだと思っているだろう。自分は自殺者遺族だが、生きることの煩わしさより死を選んだ身内を持っているせいか、なおのことそう考えてしまう。生きていることは、いつもいつも美しくて輝いているわけではない──けれど、これを書いた坂田靖子だって、その程度の反論は織り込み済みだろう。その上で言っているのだ。

生きている人間は、それだけで幸福でなければならない。

ドイツの哲学者、ハイデガーの使った言葉に「存在の贈与」というものがある。文字通り、存在は贈られるものであることを意味する。「そこにある」ということ、それ自体は、私たちの力ではどうすることもできない。存在することはまさに「贈られる」ものであって、その存在の贈与があって初めて、私たちは男性だったり、女性だったり、美しかったり、醜かったりすることができる。「存在する」は、誰にでも何にでも平等に与えられている。それはある種、狭い枠組みでの幸・不幸──例えばお金があって幸せだとか、いじめられているから不幸せだとか──を超えた、絶対的な幸福であり、人が決して作り出すことのできない、大きな恩恵なのだと言える。

ちょっとだけドイツ語(ハイデガーの使用言語)の話をすると、ドイツ語で「~がある」と言いたいときは「エス(es)ギプト(gibt)」という表現を使う。直訳すると「それが与える」という意味である。この「エス」は、英語のitと同じ、非人称の主語というやつだ。だから英語に訳すと it gives という感じ。「ここにコップがある」という際の「エス・ギプト・アイネ・タッセ (Es gibt eine Tasse.)」というドイツ語は、そのまま日本語にすると「それがコップを与える」という意味になる。

「それ」が与える、「それ」が贈る。存在ということの根本は、いつも与えられてある。

冒頭の一節は、そういう意味を含んでいるんだろう。生がいつも快適なものだということではない、そうではなくて、それでも生きていることは幸福なことなんだという、大きな意味での「幸福」概念がそこにある。

坂田靖子氏は漫画家だが、シュールで愉快な雰囲気の作風が気に入っていて、小中学生の頃によく読んだ。『バジル氏の優雅な生活』は彼女の代表作で、在りし日のイギリス貴族の暮らしが楽しめる。準主役と言ってもいい、フランス出身のルイ少年も好きです。何か新しい漫画読みたいなーという方は、手に取ってみていただけたら。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。