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フードバンクに寄付しに行く

 弱肉強食思想が、ずっと好きになれない。単に美的感覚の問題じゃなく、全体で見ると利益がマイナスになると思っているから好きじゃない。「弱い人間はどうなっても自己責任だよね」と言い始めると、自棄になって他人を傷つける人が増える。
 
 逆に、うまくいかなかった人間をやさしく包括できる社会は、おおむね治安がいい。ヤケになって犯罪起こす人もいないし、包括されていれば社会に反発する理由もない。だから「弱者はどうなっても知らない」との意見には、いつも賛成できない。
 
 「人には優しくしましょう」と昔から教えられるのは、「どんな人が相手でも邪慳に接するのはよくないことです」と教わるのは、そういうことなのかな、と思う。道徳的な意味もあるけど、社会治安を維持する方法でもある。
 
 だからといって、自分が弱い立場にある人を直接、救えるわけではない。それは行政や福祉の仕事であって、素人が手を出すと共倒れする。ホームレスを家に住まわせることも、貧しい人々に食糧を配って歩くことも私にはできない。しない。
 
 それでもなにかできることがないかと思って、調べていたらフードバンクに行き当たった。もらい過ぎたお菓子や、期限内に食べられそうにない食品を寄付できる。最近実家からいろいろ届いて困っていたところだから、今度持って行こう。
 
 既に持ち込んだ人の話では、フードバンクに頼る家庭では「お菓子」という選択肢があまりないらしく、菓子類は喜ばれたらしい。地域の担当窓口に問い合わせたら、ジャムなどの瓶類は受け取れないと言われた。当然ながら、いろいろ規定があるのだ。

 そういえば、古代エジプトのプラミッド建設に関わった人たちは「あそこで働けばビールが飲める」という理由でよろこんで働いたらしい。おいしい食はご機嫌な労働のもとなので、社員食堂の味のクオリティなんかはけっこう侮れないんだろうな。
 
 「人間にとってなにが一番苦しいことか」は人によっていろいろだろうが、自分は「飢え」一択だ。食事のことしか考えられないとか、ひたすらお腹が減ってひもじい思いをする……というのは、耐えられないものの中でも最もランクが高い。
 
 人は飢えると、人間でいることがむずかしくなる。むかし読んだソ連のノンフィクションに戦時中の家族の話があった。
 娘だった人が「パパやママが食べる分のパンが欲しかった。だからみんなに早く死んでほしかったし、わたしがそう思っていることをパパもママも知っていた」と当時のことを回想していた。飢えは、人を人でなくするから苦しい。
 
 働くのも子育てするのも何もかも、「食べる」が先にあるからできることだ。「食べる話ばかりするのは卑しい」「食い意地をはるのはみっともない」という価値観や道徳は理解できるけれど、それは食事が安定供給されて「人間」になれた側の話だ。
 
 いくら弱肉強食と言ってみても、競争に負けたが故に人が飢えるような社会は好きじゃない。そういう社会に生きる人は、生きるために略奪することもいとわなくなるだろう。そんな治安のよくない世界、住みたないわ。
 
 自分にできることは小さいけれど、小さいことはないよりもマシだから。持って行く予定のココアと、レトルトカレー、くず湯などなどを袋に詰めている。くず湯は寒い時期に飲むのが好きだったけど、最近お茶派になったのでなかなか手が出ない。
 
 賞味期限が切れるのが目に見えているなら、やっぱりシェアするほうがいいなあ。どこかの誰かと食べ物シェアしているという感覚、味わったことがないので持って行く前から新鮮な気持ちになっている。気が早い。
 
 情けは人のためならずと言うし、巡り巡ってどこかの誰かに助けられることもあるかもしれない。


本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。