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素敵なあなたに殺される

時代の変わり目だった。そうとしか言いようがない。時は昭和、縫製の仕事をしていた祖父の生活は、どんどん苦しくなっていた。かつて小さな息子だった父は言う。
「ミシンを踏んで服を作るような時代じゃなくなってたんだよ、機械で大量生産できるようになっただろ。どれだけ価格を下げたってたかが知れてる、一気に低価格で作るところには太刀打ちできない。それでも親父はミシンひとつで粘ったけど、最後には辞めざるをえなかった」

仕事を失った祖父は転職を繰り返した。給料はその度に振り出しに戻り、家族の生活は決して楽じゃなかった。
「俺は親父が嫌いだよ、貧乏させられたからね」
嫌いだよ。現在形で父は言う。祖父の死後20年以上経っても、それは「嫌いだった」にはならない。

先進的であること、進歩的であること、便利で安くて簡単であること。どれも素晴らしいけれど、その裏で人を傷つけもする。いまこんな話をするのは、家族史を聞いてほしいからじゃない。大量生産の波に呑まれて失職した祖父のような人が、いまもたくさんいるように見えるからだ。

ここ一年、オンライン授業やリモートワークが進んだ。大学は閉鎖され、付属の食堂にいたおばちゃんたちの仕事がなくなった。noteでフォローしていた大学生も、アルバイトを雇い止めになっていた。飲食店は、非常事態宣言を抜きにしても打撃を受けた。そもそも街に出る人の総量が減っているからだ。

パソコンひとつで仕事できるのはいい。通勤にかかる時間もないし、服だって化粧だって手抜きでもバレない。満員電車ともサヨナラだ。ずっと家にいられるから、仕事が終わればすぐに自由時間、無駄に拘束されることがない。そう、先進的で素晴らしい。その裏で誰の──飲み会をする飲食店や、鉄道網を維持する人々、化粧品を作る会社──の仕事が奪われようが、後戻りはできない。

人の手がかかることが、どんどん削られていく。人間にはコストがかかるから、人を雇ってミシンを踏ませるより、機械に任せたほうがずっといい。食べ物を調理する人は必要でも、接客するウエイターは必要ない。テイクアウトの器を運ぶ配達員がいればいいし、それならスキルも要らない。客に向かって笑いかける必要も、テーブルにクロスを引いたり拭き掃除をする必要もない。

……でもそれって、誰にとって素晴らしいんだろう。利潤を追求する側にとってはいいかもしれない、単純にコストの削減になるし、人を育てる時間も要らない。それはどれも、利益を追い求める側の理屈だ。自分がそっち側にいるわけじゃないのに、彼らの理論に説得されかけてないだろうか。

「人件費が削られるってスマートなことだと思いませんか?その分あなたが払うお金も少なくて済むんだし、これはとても合理的。人と対面すれば感染リスクが増えるんですから、人間はどこにもいないほうが安全です。お客様の安全と安心のため、機械にすべてをお任せください」
そう言われている気分だ。

ちょっと前に「悪人は、悪人の顔をしていない」という記事を書いた。悪いのが人でなくても同じだ。本当に悪い出来事は、悪い顔をして寄っては来ない。「安全を確保するため」とか「より低価格でご奉仕するため」とか「国の経済を立て直すため」とか言いながら、背後からじわじわと首を絞めてくる。人との付き合いが分断され、人の居場所が失われていくことを「効率的だ」と言う。

うん、確かに効率的だ。その恩恵を受けている人もたくさんいる。だけど、その「効率的で先進的」な場所からこぼれた人たちを拾わないと、社会の不幸は減らない。スマートで素敵な人の言うことは、本当に自分を幸せにしてくれるんだろうか。もうちょっと考えてみてもいいと思う。

明日は喫茶店に行きたい。いまだに現金決済しかやってない、テイクアウトもやらない店だけれど、店員さんが温かい。そしておいしいパスタを作ってくれる。まったく時代遅れではあるけれど、店は常連さんに愛されて、まだまだ潰れる気配はない。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。