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都市の持つ、たくさんの顔

霧のかかる森の傍を歩くと、ドイツのシュバルツヴァルド(黒い森)を思い出す。その名の通り、木々が鬱蒼と生い茂っていて真っ黒に見える。

初めてシュバルツヴァルドを訪れた時も、やっぱり霧がかかっていた。その中には、いかにも欧風の城(ノイシュバンシュタイン城)が浮かび上がっていて、その重厚な風景にすごくヨーロッパを感じたのを覚えている。この城は、ディズニーがシンデレラ城のモデルにしたことでも有名だ。

「でも、ドイツの人に聞いたら、あの森も一度はなくなったそうです。近代に入って、開発が進んで」
大学の国文学科の教授は、そんなことを言う。
「だから、いまのシュバルツヴァルドは人の手で再興されたものなんですよ。ヨーロッパに、手付かずの自然というのはもはや存在しないんです」

そういえば、パリに自然はなかったな、と思う。今年の年始に初めて訪れたけれど、パリという都市はどこまでもまっすぐに道が続いていて、整然としていた。だだっ広い公園や、きっちりと一直線に植えられた木々は見たけれど、あれは自然とは呼びにくい。

翻って東京という都市はどうか。

「東京は、ど真ん中に空虚な森がある」というコメントを読んだことがある。「空虚な」というのは悪い文脈ではなくて「商業利用されているのでもなんでもない、資本主義にとって意味を持たない」くらいの意味合いで使用されていたと思う。皇居に広がる森林のことだ。言われてみれば、一等地に森を持つ都市は珍しい。

多くの人にとって「東京」は、浅草の観光地やスカイツリーや、渋谷の交差点や新宿のビル群なのだろう。だけどそれは一面に過ぎなくて、東京はもっと重層的な都市だ。森があり川が流れ、坂があり、その上と下で土地の雰囲気ががらりと変わることもある。

いまは「武蔵野」という地名を追っているけれど、そう呼ばれるエリアは実はとても広い。東京の地名なんて知らん、という人には「トトロのいる風景」と雑に説明している。関東のある一定の地域を指し、雑木林や水田のイメージで知られる。

国木田独歩が、そのものズバリのタイトル『武蔵野』を書いたのは、明治時代の渋谷だそうだ。国木田は「山林に自由存す」と、その自然の風景を称えていた。いまの渋谷に「武蔵野」的な豊かな自然の面影はない。代わりにいまでは埼玉県の所沢が、その「武蔵野」のイメージを担っている。

都市には、そんな歴史の重層構造もあるらしい。昔の渋谷と今の所沢が「武蔵野」というひとつの言葉で繋げられるような──。

都市を多角的に見るということを、このところ考えるようになっている。オフィス街の東京、森を内包する東京、時代によって移り変わっていく武蔵野の風景。なんだかすごくややこしくて、くらくらするけど、考え知ったことの途中経過だけ、とりあえずこうして書いておく。都市は広くて深い。

本を買ったり、勉強したりするのに使っています。最近、買ったのはフーコー『言葉と物』(仏語版)。