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葬式無用論への反論「葬式は必要!」 一条真也

私が、葬式・葬儀に関心をもったきっかけは、島田氏の「葬式は、要らない」なので、勢い、気持ちは葬式不要論に偏っていた。(参考:見栄と世間体からの卒業「葬式は、要らない」島田裕巳)そして、世間の潮流は「葬式無用」なのだと考えるようになっていた。

しかし、実は「葬式必要論」を唱える人も多くいる。葬儀の「意味」について考えると、単に「高額だから」要らない、とか「面倒だから」要らないとか、そういうのではなくって、これまでの伝統にはそれなりの意味があるのだということを感じさせられる。一条氏は、自らも冠婚葬祭業を営む「葬式必要論」者として強力な論議を展開している。

「葬式無用論」への反論

この本は「葬式は、要らない」に対する反論本だ。「葬式は、要らない」以来、とにかく、葬式無用論が大いに幅をきかせるようになった。著者は自らも強い信念を持って葬儀会社を運営しているために、世に自分の考えを問うことにしたに違いない。

「無縁社会」と「葬式無用論」

「葬式無用論の多くは、葬式改革論という論理によって解決できることがわかります」(P21)

「無縁社会も、葬式無用論も、その背景は同じだと思います。それはコミュニティが崩壊しつつあるということ、そして人間関係が希薄化しているということです。・・・冠婚葬祭業のインフラはやはり豊かな人間関係につきます。まずは、そのインフラを整備しなければいけないと考えています。」(P64-65)

「現在、日本の社会を表現して「無縁社会」などという言い方がされます。血縁、地縁、すべての「縁」が絶たれた絶望的な社会だというのです。わたしは無縁社会を解決するひとつの方法は、葬式について積極的に考えることだと思います。葬式をイメージし、「自分の葬式はさみしいものにはしない。お世話になった方々に、わたしの最期のセレモニーに立ち会ってもらうんだ」そう思うだけで、人は前向きに生きていけるのではないでしょうか。葬式を考えることは、今をいかに生きるかということにつながってくるのです。」(P112)

葬式は必要! (双葉新書) 一条 真也

「葬式無用論」を唱える本を多く読んで、これは、私も感じていることだけど、本当に葬儀そのものが要らないというよりも、今の葬儀の形を変えなくてはならないという葬式改革の動きこそが必要だ。

葬式仏教の批判、高額なお布施の批判、既存の仏教への揶揄などでひたすら「葬式無用論」がとりあげられることも多い。しかし、だからといって、葬儀そのものが不要になるわけではない。一条氏の目のつけどころはシャープであり、葬式の形態が変わりつつあるのは、社会の形態が変わってきたことにあると説く。

これは、島田氏のもう一冊の著書「人はひとりで死ぬ」で得た着想だろう。

島田氏は、この書籍の中で、我々が「ムラ社会」に背を向けるようになり「有縁社会」から「無縁社会」を自ら選択してきた、ということを指摘している。それゆえに「孤独死」も自ら選んできたものであるという興味深い問題提起をしている。著者の一条氏はその論法に基づき、現在の葬式無用論と無縁社会の類似点を説く。

豊かな人間関係の喪失が、葬式無用論の基になっている。

たとえば、葬儀では何十人、何百人、参列者が来るわけだが人と人のつながりが希薄になった現在においては、大規模な葬儀を開いても「あまり参列者が来ないかもしれない、もしかしたら、ガラガラかもしれない。そうなったら恥だ。」こういう恐怖が大きく、遺族は「直葬」やシンプルなお葬式を望むようになっているのだ。

もしそうだとすると、葬儀がどんどんシンプルになっているということは、
人間社会の豊かさが、失われていっているという意味になる。そこで、著者独特の、葬式論が生まれる。

どんな葬式をあげたいか、だれに来てもらいたいか、このことを考えることは、今からでも豊かな人間関係を取り戻す十分なモチベーションになる。一条氏は、葬儀という「儀式」を通じて「有縁社会」を再構築したい!と願うのだ。

少し、話は壮大ではあるが、これこそ、ミッションをもって仕事をしている人だよなぁと感じた。単にお金が儲かるから葬式業を営んでいるわけではない、葬儀を行うことが、ひいては日本社会全体の豊かさにつながっていくのだから。一条氏の「葬式有用論」は一聴の価値があると思う。

「かたち」としての葬儀必要論

本書で一貫している葬儀有用論の根拠のもう一つの点が、葬儀という「かたち」が大事であるという点だ。

「心が動揺していて矛盾を抱えているとき、この心に儀式のようなきちんとまとまった「かたち」を与えないと、人間の心はいつまでたっても不安や執着を抱えることになります。これは非常に危険なことなのです。この危険な時期を乗り越えるためには、動揺して不安を抱え込んでいる心にひとつの「かたち」を与えることが大事であり、ここに、葬式の最大の意味があります。「かたち」には「ちから」があるのです。」(P34)

「儀式には「かたち」が必要です。結婚式とは、不完全な男女の魂に「かたち」を与えて完全なひとつの魂として結びつけること。葬儀とは、人間の死に「かたち」を与えて完全なひとつの魂として結びつけること。葬儀とは、人間の死に「かたち」を与えて、あの世の旅立ちをスムーズに行うこと。そして、愛する者を失い、不安に揺れ動く遺族の心に「かたち」を与えて、動揺を押さえ悲しみを癒やすこと。このように儀式の持つ力とは「かたち」によって発揮されるのです。」(P131)

葬式は必要! (双葉新書) 一条 真也

「かたち」という観点で、葬儀をとらえたことはなかったが、どの国・どの文化圏でも、何らかの葬式が行われていることは確かに注目に値する。伝統や習慣には侮れない力があるものだ。

突然、家族を失った人の心は大いに動揺する。今までここにいた家族という「かたち」を失った人は、不安定になる。よりかかれる存在を失うからだ。葬儀は、この喪失体験にひとつの「かたち」を与える価値を持つ。

本書に記載されている例ではないんだけど、インドのお葬式では13日目に火葬した骨をガンジス川に流すという葬式の形をとるという。罪から洗い流されて解脱するためのひとつの儀式だ。この儀式を終えて初めて、遺族は、ひとつのこころの区切りをつける。

日本でも、最近、いろいろな形の新しい葬儀のスタイルが模索されているがその変化の中で、これまでの伝統的な儀式が失われ、それが遺族や参列者に違和感を与えるということもあったようだ。費用を安く抑えようとシンプルにするあまり、「かたち」が崩壊してしまい、その結果として、遺族が気持ちを切り替える機会を永遠に失ってしまうことも忘れてはならない。

著者は、この論点を補強するために、僧侶で作家でもある玄侑氏のコメントを引用している。このコメントも、葬儀にはひとつの意味があるという点を明確に思い起こさせるものになった。

日常に戻るための、非日常

「葬儀は悲しみを発露し、しかも何かしらそこから力を得る場でもあります。弔うというのは、死者を悼み、また家族を慰めることですが、それも一定の型のある時間にこそ瞬発しやすいものです。日常に戻るため、あえて非日常をつくるというのが葬儀なだと力説する玄侑氏。」(P143)

葬式は必要! (双葉新書) 一条 真也

葬儀という「かたち」がないことで、その後、遺族が日常に戻るのが難しくなるという指摘は興味深いものがある。たとえば、葬儀を知らされなかった縁戚がその後も会うたびに皮肉を言って来たり、近所の人や友人など後になって聞きつけた人が、お焼香だけでもしたいと訪ねてきたり香典を持って来たり、いつまでたっても落ち着かないこともあるという。

葬儀というひとつの期間限定の「かたち」があることで、日常を取り戻すことができるものなのだ。何百年・何千年も続いてきた儀式・伝統に意味があるということを今一度思い起こした。

葬儀が提供できるもの

「葬式は旅行と同じようなところがあります。パック旅行ならお得感がありますが、個人旅行は割高になります。自分らしさというオリジナルを出そうと思えば、費用はかさむと思ったほうがいいでしょう。」(P114)

「葬儀というのは形に残らないサービスです。ある意味、心の満足しか提供できないと言っても過言ではありません。人的サービスであれ、物理的サービスであれ、同じです。」(P68)

「死に直面した家族は、悲しみの中で葬儀という、故人の最期のセレモニーを迎えなければなりません。故人の意思を反映したいと思いながらも、限られた時間の中でさまざまな決断をしていくことになります。・・・ある意味混乱した中で、お金が絡む決断をするわけで、どうしても葬祭業者という専門家の指示に従うことになります。その結果、業者がすすめる「世間の目を気にした無難な葬式」で執り行われるということも少なくありません。そうしたことが、葬儀が終わった後、「業者のいいなりになった」といった不満になって残ってしまうのです。」(P72)

葬式は必要! (双葉新書) 一条 真也

葬儀は、何か形に残る「モノ」の買い物ではない。むしろ、サービスを買うことに似ている。もしそうであれば、安いから良い、高いから悪い、というものではない。葬儀の後に、遺族の心が満たされたか、それとも、そうではなかったか、そこが大事なのだ。これまでも指摘されているように、日本の葬儀の費用は非常に高い。

いわゆる「普通」の葬儀をしようと、仏式でのパッケージを提案されると莫大な費用を見込む必要がある。本当にそれを願って、決定して、そして「良い買い物をした!」と思えると良いのですが・・・「買わされた!」と思うと、他の買い物と同じ、後になって腹が立ってくるわけだ。他のどんなサービスとも同じように、よく考えて、賢い買い物をする必要があるということだ。

「僕の死に方」を書いた金子さんは、お買い得情報を伝える流通ジャーナリストだったが、自分の最後をしっかりプロデュースした。賢い消費、賢い選択、自分がいつも伝えていたことを、この「葬儀」という大きな買い物でも示したというわけだ。金子さんの思考パターンと、実際に行った準備はとても考えさせられる。

結婚式や、何らかのイベント、一生に一度のものはよ~く計画し、それなりのお金を払い、後悔の無いようにするけど葬儀の場合は、突然行うことになり、何の計画も無いまま、気づくと数十万、数百万という出費となる。この消費の仕方、ここが問題なのだ。今や、賢い消費者として、正面からこの問題に取り組まなければならないことがよくわかる。

感想まとめ

「葬式は、要らない」への反論本の形をとった一冊だったが、一条氏の葬儀社経営者としての骨太な論議も興味深く読むことができた。葬儀を通して、無縁社会の孤独を癒やすという独特のミッション、熱い気持ちに感じ入るところがある。

著者の一条氏は、葬儀会社社長でありながら、たくさんの本を読み、書く人だ。一条氏の読書法に関しては、過去に記事にまとめたことがあった。やはり、良質のアウトプットするためには、とにかくインプットしまくる必要があるってことなのかなと思った。

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大人のADHDグレーゾーンの片隅でひっそりと生活しています。メンタルを強くするために、睡眠至上主義・糖質制限プロテイン生活で生きています。プチkindle作家です(出品一覧:https://amzn.to/3oOl8tq