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未来の錯覚

今日、桜を見に行ってきた。
近所の公園に家族4人で。

スーパーでおにぎりとお茶を買って
車の中から桜を見て、おにぎりを食べた。
ほんの20分くらいだったが
行くことができてよかった。

今年父が92歳、母が85歳。
父に至っては状態が決してよいとはいえない。
4人そろって桜を見られるのも
もしかしたら最後かもしれないし
もしかしたらあと数年チャンスがあるかもしれない。

そういう状況で今年はどうしても
全員で桜を見ておきたかった。
天気が崩れなくて本当によかった。

私たちは時折、

「また機会があればやろう」

そういう風に考える。

これは言うまでもなく
次の機会が必ずあるという前提だ。

でもそれは幻想にすぎない。
次は絶対ではないからだ。

30年ほど前、親友と電話で口喧嘩をした。
その数か月後、彼の訃報が届いた。

「またバンドをやろうぜ」

それは一生叶わない夢になった。
そして彼に謝ることも一生叶わなくなった。

去年、師匠の酒井利浩さんが亡くなった。
桜が咲く中でのお葬式だった。

「また一緒に何かやろうよ」

酒井さんもそう言っていた。
でもそれも一生叶うことはなくなった。

未来は絶対ではない。
それはみんなわかっている。
わかっているけど、それでも

「またいつか」

そう思ってしまう。
まるで自分たちの中だけは
ずーっと時間が続くかのように。

人は確証のない未来を持っていないと
辛くて生きていけないのかも知れない。
多分、みんなうすうすそれはわかっている。

だからこそ敢えて言おう。

「未来は錯覚だ」

そう錯覚なのだ。
今これを書いている私でさえも
このすぐあとにはどうなるかはわからない。

でも希望は捨てたくないし
「また明日」は続くと思いたい。

そのために「いつか」と先送りにするんじゃなくて

「時間が止まってもいいように
 できることは全力でやっておく」

こうありたい。

そうだ。

あのときやっておけばよかった

もうその言葉は言いたくない。

懸命に生きよう。
有名になれなくてもいい。
豊かになれなくてもいい。

自分にできることをやろう。
そしてそれが誰かの人生を
ちょっとでも豊かにすることができたら。

それだけでもこの人生に意味はあったと思う。