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実は怖い!あとづけの嘘!【ニーチェ超解説】

自分自身を偽って
ずっと続けていることが、
この言葉で
見つけられるかもしれません。


メンタリスト 彩 -sai-(@psychicsorcerer)です。

【ニーチェ超解説】は、
ニーチェの言葉を私なりの解釈で
「超」解説するシリーズです。

今回の言葉

まず今回取り上げる言葉を引用します。

※最初に全文を引用しますが、
解説時に前半・後半に分割して
再度引用し直します

引用が一気に読みにくい場合は、
以下を飛ばして、いきなり
「超解説(前半)」
に進んでいただければと思います。

嘘であとづけする者たち

 フランス人が、アリストテレスの三一致の法則に反対しようとし始め、したがってまた結果的にそれを擁護することにもなったとき、またしても例のしばしば見られがちな、しかしあまり見たいとも思われない現象が現れた。――つまり彼らは、その法則が維持されるべき理由を捻り出し、自分自身を丸め込んだのだ。――その法則の支配に馴染んでしまって、もはやほかのやり方を望まなくなったのだとみずから認めるのが嫌なばかりに。この種のことは、支配的な道徳や宗教の内部でも起こることだし、これまでも散々になされてきた。習慣を支えている根拠や意図は、ある人びとがその習慣に異議を唱え、その根拠や意図を問題にし始めたときにようやく、あとから捏造されて付け加えられる。ここにあらゆる時代の保守主義者の大きな不誠実さがある。彼らは嘘であとづけする者たちなのだ。
(『喜ばしき知恵』29)


超解説(前半)

今回の
「嘘であとづけする者たち」
という題の言葉。

解説に際して前半部を再度引用します。

文中の「三一致の法則」とは、
まず演劇における
ちょっとした決まり事だとして
お読みください。

フランス人が、アリストテレスの三一致の法則に反対しようとし始め、したがってまた結果的にそれを擁護することにもなったとき、またしても例のしばしば見られがちな、しかしあまり見たいとも思われない現象が現れた。――つまり彼らは、その法則が維持されるべき理由を捻り出し、自分自身を丸め込んだのだ。――その法則の支配に馴染んでしまって、もはやほかのやり方を望まなくなったのだとみずから認めるのが嫌なばかりに。

三一致の法則とは、演劇において

一日の間(時間)に
一ヶ所(場所)で起こる
一つのこと(筋)を
扱うべきだ

とする決まり事のようです。

フランスの演劇界では、この法則は
かなり厳格に守られていたようで、

1636年に「ル・シッド」という作品が
この法則を破った際に大論争となりました。
(ル・シッド論争)

※19世紀前半頃になると、
この法則にとらわれない
ロマン主義演劇が台頭します。


この、三一致の法則を
守ろうとしてきた動きに関して
ニーチェは、

当時のフランス演劇界は
この「法則」を維持する理由を

捻り出しただけにすぎない

と指摘しました。

つまり、
この三一致の法則を守ろうとした時、
守るべき理由が最初から
あったわけではなく、

「既に慣れたやり方でいいじゃないか」
「他のやり方で行くのは面倒だよ……」

という風に思っていただけにすぎず、

それゆえ、
理由は後づけのものだった
と言っているわけです。


ニーチェは
この理由を捻り出す態度に、

あるやり方に
ただ馴染んだにすぎない、
ということを認められない

そんな不誠実さを読み取ります。
(後半参照)

この不誠実さは
どれほどのものか。

それは引用中で
「自分自身を丸め込んだ」
とあるように、

「法則」を擁護している者自身が
そこに理由が
実際にあるんだと思い込み、
「これはただ馴染んだにすぎない」
ということを
自分で認められなくなる、

他人に対してだけでなく、
自分に対しても不誠実になる、
それぐらいのものです。


超解説(後半)

さて、後半部を読んでいきましょう。

この種のことは、支配的な道徳や宗教の内部でも起こることだし、これまでも散々になされてきた。習慣を支えている根拠や意図は、ある人びとがその習慣に異議を唱え、その根拠や意図を問題にし始めたときにようやく、あとから捏造されて付け加えられる。ここにあらゆる時代の保守主義者の大きな不誠実さがある。彼らは嘘であとづけする者たちなのだ。

前半で述べた
フランス演劇界の事例のようなことは
道徳や宗教でも起きるし、起きてきた。

そうニーチェは言います。

ニーチェといえば
道徳批判を行ったことで
有名な人物ですが、
その一端がここにあらわれています。

今回の場合は、

「この道徳にはこういう根拠がある」

と述べられる時には、

上の、理由の後づけという現象が
起きていることもある、
その際には

もともと理由なんてものはなく
理由はあとづけにすぎない

という批判ですね。

宗教に関しても同様ですが、
ニーチェの場合、
その矛先は主にキリスト教でした。


その後、ニーチェは、
習慣について述べていくわけですが……

ここで、
道徳(Moral)の語源が
ラテン語で「習慣」を意味する
「mos」という語に由来している
ことは、
とても興味深いこととして
付け加えておきます。


さて、習慣についての次の一文

習慣を支えている根拠や意図は、ある人びとがその習慣に異議を唱え、その根拠や意図を問題にし始めたときにようやく、あとから捏造されて付け加えられる。

これが今回の言葉で
ニーチェが述べたかったことです。

この習慣の例については、
これをお読みの方それぞれが

「何が当てはまるだろうか」

と考えてみると
面白いと思うのですが……

私の場合、
この習慣の例としては

礼儀作法

が思い浮かびました。

世の中で礼儀作法と
されているものの中には、
今回の「理由のあとづけ」が
なされているものが
確実にあるのだろうと思います。

そんなものがあると
考えるだけで、
私は結構ゾクッときます……。

(具体例を挙げる自信はありませんが……)


保守的な考えには
この種の捏造やあとづけがある、
それは大きな不誠実さである

というのがニーチェの痛烈さです。

今回の言葉は、
集団における習慣のことを
述べているようにみえますが、
これは個人でも同じことがいえる
と私は見ています。


皆様が普段行っている習慣は
ありませんか?

もっと具体的に、

嫌々ながら続けていること

そういったものは
ありませんか?

あなたが
それを続けている理由は、
本当にもともと理由として
あったものなのでしょうか?

もしかしたら、
それを続けているのは、
単に変化が面倒だったり、
変えることを恐れていたり
するからかもしれません。

あなたがそのことを続ける理由は、
自分自身を偽っていることが
実際のところなのかもしれません。


もう一度、今回のニーチェの言葉を
噛み締めてみてください。

痛烈なニーチェの言葉を
自分にも当てはまると思って読めば、
あなたの中の誠実さが
呼び覚まされることでしょう。

自分自身に対しても
嘘の理由のあとづけをしている

そう考えることは
恐ろしいことですが、
保守的な自分が抑えている
クリエイティヴな自分を
解放する機会になるはずです。


今回の超解説は以上です!

ご参考になればと思います。

また別記事でお会いしましょう!


参考文献

フリードリヒ・ニーチェ『喜ばしき知恵』村井則夫(訳)、河出書房、2012年。
下宮忠雄、金子貞雄、家村睦夫(編)『スタンダード英語語源辞典』、大修館書店、1989年。


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