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私たちは決して理解されないって!?【ニーチェ超解説】

マジでこれにはドキッとしました!!

え?ニーチェ何言ってるの?って。


メンタリスト 彩 -sai-(@psychicsorcerer)です。

【ニーチェ超解説】は、
ニーチェの言葉を私なりの解釈で
「超」解説するシリーズです。

さて今回の言葉です。

われわれの行い

 われわれの行いは、理解されることはなく、いつでもただ賞讃されるか、非難されるかのどちらかである。
(『喜ばしき知恵』264)


超解説

前回に引き続いて今回もたった一文です……。

さて、どうしたものか(汗)

今回の言葉の解釈には
2つの可能性があると
思いました。

というわけで、
それぞれの解釈を
見ていきましょう。


解釈その1

次のニーチェの言葉を
補助線にするのは
いかがでしょうか?

現象に立ち止まって「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。
(『権力への意志』481)

ここにある

事実なるものはなく、
あるのはただ解釈のみ

という考えは、
ニーチェの言葉の中でも
一般にもかなり
よく知られているものです。

この考えを
今回の言葉と合わせてみると
次のようになります。

われわれ生き物の行いは
決して理解されることはない。
なぜなら、どんな行いも、
それは事実として捉えられず
解釈されるだけだから

(……という風にこの言葉を
 「解釈」できるわけです。)


さて、
人々(あるいは生き物)の
全ての行いが
解釈されるのみだとして、

それが賞讃か非難しか
ありえないというのは
どういうことでしょう。

先ほどの引用の後の部分で
ニーチェは次のように
書いています。

世界を解釈するもの、それは私たちの欲求である、私たちの衝動とこのものの賛否である。いずれの衝動も一種の支配欲であり、いずれもがその遠近法をもっており、このおのれの遠近法を規範としてその他すべての衝動に強制したがっているのである。
(『権力への意志』481)

引用中にある
「遠近法」
という言葉は、ニーチェが
独特の使い方をしたことで
知られるものなのですが、

今回は「遠近法」とは
「それぞれの視点」

というぐらいの意味だと
捉えることにしましょう。

すると、この引用は、

何かが解釈されるのは
欲求や衝動によってだ。

その衝動は、
それぞれの視点に
合わせるように
(つまり、
 それぞれの視点の
 支配下に置くように)
解釈していくものだ。

そして、
その解釈には
それぞれの視点による
賛否が伴っている。

このように
述べていることになります。

つまり、
ニーチェは

それぞれの立場でしか
物事というものは捉えられず、
それは立場ごとの賛否、
すなわち賞讃や非難
がすでに含まれている。

それゆえ、
われわれの行いは、
理解されることがない。

そんな風に
述べているわけです。


この

事実なるものはなく
全ては解釈でしかない

といった考え方は、
人によっては
受け入れやすいものかも
しれません。

しかしその場合、
この考え方自体が
1つの解釈でしかなく
事実ではない
ということになり、
ニーチェの主張自体が
不安定なものに
なってしまいます。

そのことが必ずしも
矛盾することでは
ありませんが、
この解釈その1で
述べたことには
難点もあることを
留めておいていただければ、
と思います。


解釈その2

さて、
もう1つの解釈があります。

今回の言葉は
『喜ばしき知恵』という
ニーチェ中期の著作からのものですが、

同書の他の言葉に
「われわれ理解されがたい者」
と題されたものがあります。

その一部を引用すると、

誤解され、誤認され、取り違えられ、誹謗され、聞き間違えられ、聴き落とされることを、これまでわれわれが嘆いたことがあっただろうか。それがまさにわれわれの運命なのだ――しかも、これからもなお続くだろう! 控えめに言って、一九〇一年までといったところか。
(『喜ばしき知恵』371)

ここでは、

ある時期まで自分たちは
理解されない

と述べています。

つまり、ニーチェは、
「いつか自分が理解される」
という可能性を
考えていたことに
なってしまいます。

すると、今回の言葉は、

(ニーチェの想定通りなら)
1901年までは、
自分たちのような考えは
理解されず、
ただ賞讃か非難をされるのみだ

と述べていることになります。

つまり、

解釈その1では、
われわれ
 =人間(あるいは生物)一般

だったのに対して、

こちらの解釈その2では、
われわれ
 =ニーチェと同じ考えの者たち
だと見るわけです。


私は、
ニーチェの考えというのは
2000年代の現在に至っても、
まだ理解されているかどうか
かなり怪しいと
思っています。

(ニーチェが批判した様子が、
 現代の世の中では
 さらに強化した形で
 演じられているとさえ
 思っています。)

ニーチェと同様の思想を
抱くものは、
決して理解されない上に
ただ賞讃されたり、
ただ非難されたりする
生き方をせざるをえない

こんな状況は、
現在でも続いていると思います。

ニーチェに共感し、
それに沿って生きようとする人は
このことを踏まえておいた方が
いいでしょう。

(それ以前に、
 ニーチェに共感したあなたが
 本当にニーチェを理解しているか

 ということも大きな問題です。)


こちらの解釈にも
実は難点があります。

それは、

果たしてニーチェが、
たった一文で、そっけなく
「自分たちのような考えの
 持ち主は理解されない」
とだけ書くだろうか

ということです。

言葉を簡潔に
しているということは、
一般的なことを述べている
と考える方が自然では
あると思います。

この解釈その2は
解釈として弱いところが
あるとも思っております。

ただ、
今回の言葉について、
解釈その2が
当てはまらないとしても、

ニーチェ自身が
自らの思想を理解されない

と考えていたことは、
おそらく間違いないでしょう。

この点は、
ニーチェを読む上で
頭に留めておいて
損はないと思います。


今回の言葉「われわれの行い」と
「われわれ理解されがたい者」
は同じ著作に収められていますが、
別々の時期に書かれています。
前者は1882年の初版で
収められたもので、
後者は1887年の第2版で
付け加えられたものにあたります。


おわり?まとめ?に

今回は、
ニーチェがたった一文で
記したことについて、
2つの解釈をしてみました。


……実は、

今回の2つの解釈で、
うまくフォローできなかったと
感じていることがあるんです。

それは、今回の言葉で

「行い」が理解されない

と述べられていること
についてです。

今回の言葉は、

「現象」でもなく、
「考え」でもなく、

「行い」なんです。


今回考えてみた
2つの解釈ではともに、

今回の言葉は、
事実や思想に対して
それが真実であるか、
ということを問題にした
「認識の問題」についての
言葉だ

と解釈してしまっています。

ただ、
今回の言葉は、

われわれの行いと
それに対する賞讃や非難

なんですよね。

つまり、
今回の言葉が、

認識の問題ではなくて
実践の問題なのだ

という点に注目すると、
補助線として引用した
他の言葉との違いが
明確になるかもしれません。


これは、
ニーチェが

真理というものを批判したこと
(つまり認識の問題)

道徳というものを批判したこと
(つまり実践の問題)

との関連を見ることにも
つながりそうです。

これらの関連は
ニーチェを読む上で
とても重要なものなので、
また今後の
【ニーチェ超解説】で
取り上げる必要がありますね。

いや、
絶対にここは、
取り上げざるを得ないです……。

今後の【ニーチェ超解説】を
お楽しみに!


今回の超解説は以上です。

ご参考になればと思います!


参考文献

フリードリヒ・ニーチェ『喜ばしき知恵』村井則夫(訳)、河出書房、2012年。
フリードリヒ・ニーチェ『権力への意志(下)』原佑(訳)、筑摩書房、1993年。


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