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罪悪感の秘密を教えます【ニーチェ超解説】

生きていて罪悪感を持つこと、
どう捉えればいいのでしょう?

ニーチェによる
一見簡単で、
実は難しいメッセージを
受け止めてみてください。


メンタリスト 彩 -sai-(@psychicsorcerer)です。

【ニーチェ超解説】は、
ニーチェの言葉を私なりの解釈で
「超」解説するシリーズです。

久しぶりになりましたね。

このシリーズは
今後マイペースに
あげていこうと
思っております。

では、今回の言葉を見てみましょう。



 魔女を裁いたきわめて鋭敏な裁判官も、さらには魔女自身さえも、魔術の罪を信じ込んでいたが、それにもかかわらず、そのような罪は存在しなかった。どんな罪もそんなものである。
(『喜ばしき知恵』250)


超解説

ニーチェの罪に対する捉え方が
一目でわかるようなアフォリズムです。

「こういう人は罪深い」
と断ずる側と
「自分はやっていることは罪深いのか」
と悩む側、
ここで、どちらの側も罪というものが
あることを信じています。

(それは、
 「私はあえて罪深いことをやっている」
 と思いながら行動している人も
 罪を信じている点で同様です。)

このことに対して、
ニーチェは

どんな罪とされるものも
あるように見えていたとしても
実際にはないのだ

と言っているわけです。

もちろんニーチェも、
罪とされるものを意識して
人々が動いていること

理解しているはずです。

というか、むしろ、
ニーチェは
その点に関して、
ツッコミを
いれているわけです。

つまり、
実際にはない罪を
あるものと信じて、
それを意識して
人々が動いていることに
ツッコミを入れているのでしょう。


例えば、変な想定ですが、

ある世界では笑うと「魂」が汚れる。

そして、死んだ時にその「魂」の汚れ方を測られて、その度合いで死後に暮らせる世界の階層が変わる。

清い階層は笑いに溢れており、反対に汚れた階層はつまらなさに溢れている。

その行き先を決めるのは、生きている間にどれだけ笑ってしまったかにかかっている。

死後に喜びで笑うためには、生きている間に笑いを我慢しなくてはならない。

こんな風に
説かれている世界が
あるとしましょう。

(これは本当に
 適当に考えたものです。)

すると、多くの人は、

「生きている間の
 笑いによって
 死後の運命が決まるなんて、
 そんなの聞いたことがない。
 笑いが罪だというのは
 変な考えだ!」

と言うことでしょう。

その時には、
笑いという行為を
罪だとする考えが
おかしいのだと

指摘しているわけです。

また、

「死後に
 つまらない世界に
 行くかもしれない
 というのは
 変な考えだ!」

とも言うかもしれません。

この時には、
罪の結果として
起きることが
おかしいのだと
指摘しているわけです。

しかし、
これらのことを
述べる人の中にも

「罪となる行為とは
 実際にはこれこれで
 そして罪の結果、
 人は本当はこうなるんだ」

という想定をして
そこから批判を
しているのかもしれません。


特定の罪とされるものに
上のような2つの指摘
「それはおかしい」
と批判する感覚はわかると
思いますが、

ニーチェは
全ての罪とされることに
上のような指摘が
成り立つのだと
述べていると思います。

つまり、
ある行為をして
その結果
こういうことになる
というものはないし、
何より罪そのものが
ないのだ。

そう述べているわけです。


となると、
罪が本当にはない世の中で
起きていることは、
罪というものがあると
想定することによって、
人が非難したり裁いたりする
(さらに罪の意識を感じる)
その「人々の動き」だけ
ということです。

それはあたかも、
笑いが罪の世界で、
大爆笑した人がいて、
実際には死後に
どちらかの階層に行く
なんてことはないのに、

その世界の人たちは
笑った人を牢獄に入れたり
何らかの裁きを与え、
笑ったものは
罪を感じていく
というようなものです。

そういう
「人々の動き」が
あるだけなのです。

実際、
魔女裁判で起きたことは
それだったわけです。


罪悪感を感じた時、
「実際には罪はない、
 人々の動きの末
 私はそう感じている」
と自覚することは
容易でしょうか?

ニーチェの考えは、
上であげた例を越えて、
死後の結果だけでなく
生きている間の結果でも
いえるものでしょう。

つまり、
私がある行為をした結果、
誰かを傷つけてしまった
それは相手も悲しむし、
こちらも悲しく嫌な気持ちに
なってはしまう。

しかし、
これは罪とか悪とか

絶対的なものではない。

これは、相対的な
自分と相手を含む
人々の動きによるものだ。

(そしてこれは、
 反対に傷つけられた際にも
 同じことが言えるわけです!)

そう思えるかどうかです。


今回のニーチェの言葉は、
私たちが生きていく中で、
果たして
こういう見方になれるか、
という問いかけを
大いに含むものだと思います。

この見方の末に要求されるのは
この見方に耐えるための
ある種の心の強さ、
つまりは「力」
なのかもしれません。

罪一般が実際にはない、
そんな世界を
あなたはどう受け止めるでしょう?


今回の超解説は以上です。

参考になればと思います!


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