場面緘黙症の不安感について

(未整理のメモ、個人的覚書です🙇‍♀️)

場面緘黙症と発達障害と不安障害。
それぞれを「表に出た症状」で語られるため、(ASD傾向が薄くある)元場面緘黙症経験者が違和感を感じるという話です。

発達障害がある上での不安障害の扱い(?)方について疑問を感じたので書き出してみます。

あくまで、「話せるようにならないとダメ」「皆と同じようになりたい」「今の自分を変えたい」と思っていた(後ほど薄い?ASD傾向だと判明した)自分の話ですが。

「不安障害」の一つとされている場面緘黙症について、その「不安感」はどこから来たか?というと、直感してしまった他者との違い、その人と交流する手段が自分の中にない恐怖感や、家とは違う場所・モノに対する緊張感やらで、そう考えるとやはり元々のASD傾向と、「他者との違いを感じてしまうこと」かな…と感じています。

(語弊があってはダメだけれど、他人と混じりたい欲が強い人ほど不安障害は強くなる「気がする」)

最近、非当事者さんの、「ここは発達特性、ここは不安障害」と切り分ける考え方を聞き、そこで「…んん?」となってしまって。
不安障害=「特定の対象や状況に対して過度に不安を抱えること」は、自分の特性が環境に合わない時に発生するものと(あくまで私は)感じていて。

特性という広い土台の上に、ポツポツと状況によって不安が強く現れる部分があり。(自分の場合はわかりやすく、「家以外」はほぼそれだったという)

「不安障害のみ」「特性のみ」と切り分ける考え方(だと私は解釈した)それはとても不思議な感じがしてしまったのです。

(非当事者の方に)分かりにくい原因を考えてみると、特性というものを「多数派視点」で説明されていることが多いからかなと今のところ感じています。
「癇癪」「こだわり」とか、表に出た部分。

ここを一歩踏み込み、「第三者視点に立ってしまう感覚」や、「相手を認識していても、繋がり方が分からない」ことなど、主に対人関係の困難を、一般向けの書籍などには(私が知らないだけかもしれませんが)見かけたことはほぼなく…(知っていたら読み取れる、という感じ)



私の場合は、こだわり的なものを意識的に外で出さないようにしていたようにも感じますし、元々癇癪などは起こさないタイプだったそう。

自分の中で明らかに「異質」だと感じたのは、「他人と交流すると自己を見失いそうになる恐怖」というものでしたが、これは側から見たら全くわからないだろうと感じます。

場面緘黙症で話せない状態も、「緊張して話せない」にしか見えず、また、特性が薄い方(?)は状況も理解していたりするし…。けれど、やはり「声が出ない」「フリーズ」まで行くのは、ただの緊張や不安だけではない。他者と交われない、その理由は何なのか。

(しつこいですが)私の場合は、「不安障害」の中に、自己認識に関連する恐怖感があり、そこが「そもそもの、根本の部分」だと感じるのです。(「家と外の自分が全く違う」「家でのおしゃべりな自分を連れて来れない」→「話し方が分からない」→不安、恐怖→場面緘黙という流れ)

緘黙さんは、「他者認識は出来ているが、敏感過ぎる」・他者の情報が流れ込んで来はするが、対処不能系」がそこそこおられると勝手に感じています。

対処不能、第三者視点に立ってしまうことについては、話せるようになってから気付く部分かも知れないので、尚更見えにくいのですが。(緘黙している時は、必然「見ている側」になるので、それが第三者視点なのか認識しにくいかも知れないし、幼少期は言語化して語れるものではない。「話せない自分と相手」という、二人称視点にも見えなくはないし。
(書きながらの新発見だったので太字w)


第三者視点=相手と同じ土俵に立てず、緊張している自分を本来の自分が見ている感覚は、私の場合は幼稚園児の頃から自覚があり、それはとても辛いものでした。他者と繋がるとっかかりをどうしても見つけられないという絶望感。

(場面緘黙症のお子さんをお持ちの方から聞いた話では、「少し話せるようになった」年長さんのその女の子は、「小さくなってしまう自分」や「自分を統制してくる何者か」の存在を認識していたとか。)


とっ散らかってしまいましたが。
「第三者視点に立ってしまい、相手と直で繋がれない」そのことを「自覚してしまう」タイプの人が、より不安感が強くなるのかもしれません。

環境やものに対する不安感はある程度慣れることができますが、「人」については中々難しいですね。

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