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23. 上徳は徳とせず(じょうとくはとくとせず)


花のようにただそこにいるだけで癒しや元気、勇気をかもし出せる人間になろう


今日のお写真はyaechanさんのコスモスの花の画像を使わせていただきました。yaechanさんありがとうございます。

この写真、とても綺麗で心洗われますよね。

最初、私はその理由だけでこの写真を使わせていただきました。意図的に使用したわけではありませんでした。

ところが良く考えてみたら、まさにこれは今日のタイトル「上徳は徳とせず」なのです。この偶然に自分でも驚きました。

徳を持った人は自分が徳を持っているとわかっていないほど自然


このコスモスは、ただ自然にそこに咲いているだけなのに、人々に癒しや優しさやパワー、元気、勇気、美なんかを与えてくれる。

コスモス自身は「人に徳を与えてやろう」なんてこれっぽっちも思ってないですものね。

これって最強ですよね。

今日の老子の話はまさにこれなんです。これ以上の説明は要らないんです。

もし自分が徳を積みたいのであれば、「ただそこにいるだけで癒されたり元気を与えられる花のようになる」、これだけかもしれません。



「徳」と「義」は対極にある


ちなみに、この対極にあるのが「義」であると老子は言っています。

私の解釈では、「義」とは意図的であり、不自然であり、作為的に人を取り込もうとするためのノウハウやテクニックとも言えるかもしれません。


しかし、「義」が悪いものというわけではありません。それは世の秩序を守るため、また生産性を上げるために必要ですものね。


古くから変わっていないものの中に本質がある


本当に「老子」は深いですね。読めば読むほど目から鱗です。これは様々な人生経験をしてからやっと理解できるような大人の学びだと思います。まだまだ学ぶことは沢山あるのです。

そして、これはすでに2500年前には確立されていた思想でなんですね。すごいと思いませんか? 

そして、こういった普遍的なものの中にこそ、本質があるのではないでしょうか。


完璧などないが、人生、目指してなんぼ


人間は完璧ではありません。わかっていてもできない事は沢山あります。

しかし、人として生まれた以上、そして一度きりの人生、少しでも徳を持った人間になりたいですね。

そのために最初は「義」のような「徳」であったとしても、常に人に与え続け、それがいつか自然にかもし出せる人間になれるよう、精進していきたいですね。

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