見出し画像

いじめについて

最近、いじめの話題が盛り上がっているのを見かけた。
"最近"というか、ある程度の波を持ちながら、昔からずっと、繰り返し問題になっている。


1.経験

自分もいじめられていた経験がある。

それをいじめと呼んで良いのかどうか、今でも迷う。

内容がどうこうというわけではない。
いじめられていたという気持ちが"イキっているのではないか"と怖くなるのである。

冗談や、少しお遊びが行き過ぎただけなのかもしれない。
それを自身が過度な被害者意識で「いじめられていた」と言い切ることが、とてつもなく恥ずかしい事なのではないか、自分が過敏すぎるだけなのではないか、と思ってしまうのである。


そして、自分が加害者の側に立ってしまった事もある。

仲間内の遊び半分の気持ちだった、相手も合わせて笑っていた。
しかし、その笑顔は確かに"無理"していた。

いざ加害者の立場になった時は、ハッキリといじめだったと認めることができる。

中には加害者になって尚、「いじめていたのかもしれないが...」と懐疑的になっている者も居たかもしれない。

けれど皆、職員室に呼び出され、また或いはクラスのホームルームで、一度は謝罪するのである。

そこには誠意の如何に関わらず、謝罪という形式的な贖罪が、一見オープンで、その実、非常にクローズな環境下で行われる。

そうして皆、"謝罪した"という事実だけを認め、"許し"を半強制的に引き出し、万事解決したかのように歪な握手と仲直りのパフォーマンスを披露させられ、忘れる。

いじめた側は受動的にいじめの存在を認め、オートマティックに形骸化された贖罪によって解放されるのである。
謝罪したからには後からこれ以上蒸し返さないでくれと、クラス、ひいては学校という秩序から無言の圧力をかけられる。

前述したように、いじめられた側はただでさえ迷い、閉じこもり、疲弊している中、能動的にいじめの存在を認め、それを告発しなくてはならない。
やっと勇気を出して教師に相談しても、(勿論、全てでは無いと信じたいが)誤認では無いかと、何度も状況説明や、いじめである事の信ぴょう性を求められる。

何故か被害者側が。

2.俯瞰

正直このシステムがいきなり変わるとも思えない。

自分が歳を重ね、教員の友人や、自分の子どもが学校に通っている友人も出来た。

初めて、あの小さな世界を外側から見た。

刑務官の様にすら思えた大人たちも、皆それぞれの思いを抱え、苦労し、時にくたびれながらも、自分の務めを全うしようとしている。

その中で、どうすればいいのかと路頭に迷ったり、兎にも角にも一度問題を収束さえなければいけない場面がある事も分かった。

大人は完全ではない。なんなら沢山のタスクや責任の中で、子どもたちより疲れ、子どもたち同様に助けを求めたくなる場面もある。


その中で、いじめられ、いじめていたあの当時の感覚はなんだったのだろうかと考える。


徐々に自我が芽生え成長し始める頃。

自分を含め皆、エネルギーを持て余していた。

走り回ったり、漫画やゲームに熱中したり、誰かと共有するアウトドアタイプもいれば、一人や少数で静かに燃焼するインドアタイプもいた。

しかし皆一様に、猛烈な速度で発達する体と、伴って発生する強大なエネルギーを無意識化で持て余していたように思う。

日々の発見や、増えていく知識、時間を追い越そうと回転数を上げる脳、それでも追いつかない成長や、感情。

早く大人になりたかったし、相手の子供っぽさを見つけては内心「やれやれ...」とバカにもしていた。
認められたかったし、親や先生の様に誰かを叱り、諭し、導きたかったのかもしれない。


気付くと僕は苛立ち、モヤモヤすることが増えていた。


漠然とした理想と、自分が子どもであるという事実。

溢れだしたエネルギーは次第に承認欲求を歪ませ、少しの手違いで、他者を否定する事による発散に変換されてしまったりするのではないか。

知識がなくともマウントを取りやすい、容姿や癖、病気。
マイノリティーという意識もないうちから、違いを作り出し揚げ足を取っているのではないか。
そして次第にそれは仲間意識の様なものを生み結託させ、説明できない不安感に対する人柱の様に機能していくのではないか。


3.同じく違う

いじめはなくならない。

大人の社会の中でも平然と行われ続けている。
にもかかわらず如何に子どもに止めさせられようか。

けれど大人には大人の、子どもには子どもの、というように、ところ変わればいじめの形は違うように思う。

大人は子どものいじめを解決(というよりもケア)出来る可能性を持っている。

綺麗ごとでは済まない。
大人が理想とするような結末なんて、そんな簡単には訪れない。

まず重要なのは適切な距離と、エネルギーの向かう先では無いかと思う。

まずはいじめを受けた側が安心できる場所を作る事、被害者、加害者間の関係性の修復は最後も最後、まずは適切な距離を取らせること。

いじめを受けた側の希望を聞き、自分もしくは、いじめた相手全員のクラスを変えるぐらいの距離感。

その行為を行った集団を解体し、少しでも無力化に近づける。

場合によっては自宅学習という選択を学校側から勧めるのも良いかもしれない。「なぜいじめられた側が」と思うかもしれない、しかし、後述するがいじめた側こそ学校に来るべきだと思っている。

そして、何よりいじめが発生した当人たちの事と同様に、その時の周りの状況が大事なのでは無いだろうか。

いじめられていた子をかばっていた子、かばいたかったが勇気が出無かった子、そもそもいじめの事をよく知らなかった子も居るだろう。

いじめは当事者間の問題ではない、相関であると考える。

そういった繋がりを把握し、まずは"普通"に生活できる場所を一緒に作っていくことが、必要なのではないだろうか。

受けた傷は一生残る。

担任としての思いや気持ちもあるかもしれ無いが、それ程の事を1学年のうちに解決することなど、まず不可能なはず。

個人情報の問題もあるが本来はいじめが起こった時点で、それを記録化し、全学年の教員でシェアし学年を通して対応していくべきなのでは無いだろうか。それによって一人当たりの教員にかかる負担も、分散できる部分があるはず。

いじめは起こった時点で"クラスの問題"では無く学校の問題である。

必要なのは謝罪の言葉の量ではなく、時間と根気なのでは無いかと思う。


そして、いじめた側には簡単に罰を与えて、簡単に許してはいけない。

いじめた側は、一度はその業を背負わなければいけない。

前述したように、学校に来続けるのは逃げ場を無くすためである。

いじめは恥ずかしい行為で、その恥を背負いそれでも向き合い続けた先にしか自覚は芽生えない。

反省は取り繕える、しかし恥はより早く、より直接届く。

悪いことをしたという以上に恥ずかしい事をしたのだ。

罪は武勇伝として語り継がれたり、時として美化される。
しかし、犯してしまった"恥"は"傷"同様に自身が向き合っていかなければならない。

そしてただ追い詰めるのではなく、勿論ケアが必要である。

いじめられた側には"治癒"、いじめた側には"治療"なのだと思う。

話は遡るが、持て余したエネルギーや、成長の中で感じる不安感が、いじめという歪なコミュニケーションを生み出す原因の一つなのでは無いかと思う。

そのエネルギーが正しく向かう先、発散させる場所を一緒に探すべきでは無いだろうか。

不安感から来たものなのであれば、まずはその不安感を共有する事から始まるのではないだろうか。


いじめた側はいじめている対象を完全には追い出さない、生かさず殺さず、自分たちの範疇に置いておくことが多く。対象が居なくなればまた次の標的を探す。

常に自分より弱者をそばに置き、支配したがる。

「自分より弱者」という存在は子どもの小さな世界での安心感や、向かう先の無いエネルギーの暇つぶしになる。

それは極論、自己肯定感の一種に近いのではないかと思う。


4.これから

得手不得手を超えた自分の好きなもの、冒険してみたり、発見したり、驚いたり。
そして、認められたい、褒められたい気持ち。

それを見つけ身につける事こそが学びでは無いのだろうか。

いじめられた側、いじめた側、双方がこの先必要とするものは、余裕と選択する権利である。

知識や経験、ましてや規律を詰め込むことだけが学校の役割ではない、逆に心や思考に余裕を作り、自由に未来を選ばせてあげる幅を作る事こそが育みなのでは無いだろうか。


SNSが発達し、より個人が尊重される中、プライバシーという盾の裏で、大人が不可侵の子供たちの国は、今までより、より大きく複雑になっている。

正直、物理的なやり方ではもう追いつかないだろう。

けれどネットワークが発達したからこそ、そんな歪な形でなくとも、もっと健全に「自分を認めてくれる間口が無数に存在する!!」と、気付けるチャンスがあるはず。

何十人、百何人といるグループLINEに誹謗中傷や、いじめの画像や動画を投稿する力があるなら、方向を変えるだけで相当なものを創りだしたり、収益を生みだせる可能性が自分たちにある、という気付きを与える事だって出来るはず。

非常に最低な表現かもしれないが、あえてそういう世代に分かりやすく、如何にいじめという行為のコストパフォーマンスが低いかを教えるべきではないだろうか。


自分は完全に教育現場からは程遠い所で、子どもも居なければ、不良のなりそこないの様な日々を送っている。

なので自分に発言する権利など無い事は重々承知している。

けれど、今でも、学校の中で得も言われぬ違和感に苛まれていたあの頃の感覚を思い出す。
そして、この国に於ける学校という制度と向き合っている友人たちの大変さを思う。


そして何より自分は音楽をはじめとする「自己表現」というエネルギーの向かう先を見つけた。

その中で自分を大切にしてくれない場所から得る物なんて何も無い事、誰かを嫌な気持にさせて支配するより、不安な気持ちも共有した方が余程安心出来ること、何より、学校を出たら、今度は自分で選んで自分だけのクラス(コミュニティー)を作っていける事。

大人になるとは選択肢が"増える"事ではなく、"見えるようになる"という事。

既に沢山の選択肢の中で生きている。

少しでも生き延びて、その選択肢の中で出来るだけ沢山大好きなものを掴んで欲しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?