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群衆哀歌 20

Before…

【   】

 こんな夢を見た。

 俺は坂の中腹辺りに立っていた。直角に近い曲がり角が幾つもあり、石垣の塀の脇を小川が流れている。
 下流を見ると、その小川は徐々に大きくなり、坂を下り切ったであろう辺りにはもう巨大な川になっている。水は透き通っていて、底に転がる石ころの形が良く見える程だ。

 猛烈に、その川の石を触ってみたくなった。坂をゆっくりと降りる。心地良く、少しずつ身体が軽くなっていく。足取りも心做しか楽しくなっていく。そこで、もう一つの変化に気付いた。

 寒い。空は晴れ渡っている。下ってきた坂を見ると、上流の方は凄く曇っている。あっちの方が寒そうだ。でも、下流へと進めば進むほど、温まる心とは裏腹に身体が冷えてゆく。全身が震え出した時、着ていたはずの上着が無いことに気付いた。どこやったっけ、どこで脱いだんだっけ。

 歩いてきた方を振り返る。少し戻れば、ここよりは暖かいのかな。降りてきた坂を見ると、坂のかなり上の方の枝に見慣れた服が引っ掛かっている。あんな奇天烈な服、見違えるものか。一度アレ着てから出直そう。散歩は好きだ。坂の頂上からの景色も見てみたいし。

 俺は来た道を戻る。川は徐々に細くなっていくが、まだ大河と呼べる広さである。どんだけ歩いてきたんだ俺は。
 何処からともなく、楓だか紅葉だかの葉が雨のように降り注いできた。綺麗だなぁ。一枚を手に取る。五枚葉。掌に似ている。何故だろうか、腹ン中から愛おしさを感じてしまうのは。
「後で迎えに行くから、先に下で待っててくれ。」
 そう呟いて川にそっと流した。すると不思議なことに、下流から上流に向かってその掌みたいな葉が流れていく。俺と同じ行先に向かって。

 坂の麓までその葉と一緒に歩いて行った。震えるような寒さはもう感じない。ここから勾配になるが、この子はどうするんだろう。足を止めて葉を眺める。葉は坂を流れる小川を上っていく。どうなってるんだ、低いとこから高いとこに流れていくって、何で。分からない。気付けばその葉っぱに先導されるように、俺の足は坂を登り出した。

 坂を登るにつれて、身体がどんどん重くなっていく。純粋に坂がきついからではない。突然溜まっていた疲労が全て解放されたような。足を止めた。元居た位置より少し上の方に登ってきたが、徐々に勾配はきつくなっていき、それとは別に、下流にいた頃より明らかに全身が痛むほどの重力を感じる。

 川を見た。すっかり細くなった水面に、さっきの葉っぱがぷかりふわり浮き沈みしている。川はもはや小さな滝と言っても過言では無い程の急流になっていたが、その五枚葉は沈みそうになりながら負けじと激流に挑んでいる。

「負けてらんねぇよな。」

 ふと、独り言が零れた。

ーそうだよ、がんばろ。

 返事が聞こえた気がした。頷いて、悲鳴を上げる身体を引き摺るように勾配を登る。上着がぶら下がる木までもう少し。近くで見るとでっけぇ木だな。そりゃ遠くからでも見える訳だ。ってか、何で俺の上着ってあの距離から分かったんだろ。

 坂の頂上に続く一本道は、もう壁に近い、辛うじて歩いて登れる限界であろう急勾配だった。小川は、細い一本の滝になっていた。負けじと支え合ってきた五枚葉は、さながら鯉の滝登りを髣髴とさせるように、勢い良く滝を登り、見えなくなってしまった。

―上で、待ってるね。

 また聞こえた。待たせる訳にゃあいかねぇな。意を決して壁への一歩を踏み出した。今や膝は震え、前のめりに倒れそうになって手を付いた時、指先から付け根まで燃えるような痛みが走った。

「いってぇ……。」

 転げ落ちそうになる身体を、激痛に塗れた両手両足で踏ん張って支える。何故だか、あの葉っぱ一枚を待たせるのは、凄く申し訳ない。一挙手一投足が苦痛だった。いっそ寒くてもいいから、あの下流で楽になりたかった。頂上まであと一歩のところで、足が滑り落ちた。激痛は絶頂で、支えるにも力が入らない。嗚呼、ここまで来たのにな。何かごめん、葉っぱちゃん。

 壁だか坂だか最早分からないまま、幾つもの曲がり角を進み、最後の直線の、あと一歩で負けちまうなんて、情けねぇな。未練がましく残った力で右手を伸ばしたが、頂上に指先を掠めただけで、掴むことはままならなかった。重心が傾く。落ちる。堕ちる。

 転げ落ちる覚悟が決まった時と、坂の上から伸びた腕が俺の手を掴んだのはまさに同時だった。誰の腕かは桜吹雪の桜を五枚葉に変えたような絶景で見えなかった。掴まれた腕は千切るんじゃねぇかって位痛ぇ。離してくれ、痛ぇ。でも助けてくれた奴に礼も言えずに消えられるか。畜生。

 俺は何かが千切れる音を確かに聞いて、腕に力を込めて頂上へ登り切った。滝の出処は、小さな水溜まりだった。凄く綺麗で、水溜まりの隣に立派な大樹が佇んで葉を散らしている。空は曇っている。雨の代わりに葉が舞っている。

 景色に見惚れていたが、もう立っている力も残っておらず、仰向けに倒れた。葉が緩衝してくれて、痛くなかった。痛みももうあるんだか無いんだか分からない。曇り空に舞う紅の五枚葉。季節、今なんだっけ。滝のせせらぎが心地良い。下流にいた時より、何か居心地良いなぁ。

「あの葉っぱ、俺のこと拾ってくれたのかなぁ。」

―そんな訳ないじゃん。葉っぱは道案内をしてくれただけだよ。

 凄まじい量の葉吹雪の中から、伸ばした腕の持ち主が見える。今の声は聞き覚えが無い。顔も葉っぱに隠れて全然見えない。誰だか分からなかったが、舞い散る葉っぱの隙間から見慣れた二筋の光が見えた。

 黄金の月と、白銀の流星。そんな想像を膨らませる細い二筋の光。俺は表情筋の痛みに負けず頬を緩ませた。

「おめぇかよ。」

 落ち葉の絨毯の上で、仰向けになりながら笑う。その腕の持ち主は、ゆっくりと俺へ倒れ込んできた。衝撃を受け、夢の中で一番の激痛を全身で浴び、絶叫した所で夢の世界から旅立った。

Next…


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