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歪んでも、なおそれを愛と呼ぶ 10

Before…

【十四】

 藤瀬陽監視当番が、鬼仏の宗次の復帰にあたって変更になった。宗次の復帰は界隈の誰もが待ち望んでいたことだったので、特別待遇で即現場復帰の許可を降ろすのに時間は要さなかった。

 陽の様子は、秀太との怒号合戦からまた変化していた。怯える猫が如く隅に座り込んでいた男は、今や飢えた狂犬と化していた。血走った眼で看守を睨み続け、秀太とのやりとりがあった翌日には「あの男はどうした!何故来ない!私から逃げたのか、あの野郎!」と人が変わったように大声を発しては鉄格子や壁を蹴り、プラスチック製のスープの器を床に叩きつけて踏みつけ木端微塵にしてしまったり、出血するまで爪を齧り続けたりする等、奇行がより目立つようになった。秀太が翌日休みだと言っていたことは最早彼の脳内に残っておらず、秀太の言葉に怒り狂うのみであった。だが自死を試みることは一切無く、「あの若人を出せ」とまたも譫言の様にぼやき続けては時間を消費していた。

 翌日、秀太と共に宗次が直々に出張って番をした。漆黒のスーツに、スーツと同じくらい黒いネクタイを着け、喪服同然の格好で陽と対面した。陽は変わらず血眼で宗次を睨み続ける。宗次もまた、日本刀の切先を想像させる鋭い眼で陽を睨む。一時間程経った時、宗次が先に口を開いた。
「お前、恋人ぶっ殺したらしいな。そのくせ気違い待遇で独房で閉じ籠ってんなぁ。満足か?」
 宗次の放った一言は、陽の沸点を超越させるには十分過ぎた。跳ね上がるように立ち上がり、鉄格子を何度も蹴りながら怒号を上げる。
「私が!俺が!薫を救ったのだ!ここに閉じ込められて然るべきはこの私だ!俺にどの目線でモノ言ってるんだ老いぼれが!この格子が無ければ、鋭利な刃物で貴様をメッタ刺しにしてやるところなのに!薫、嗚呼薫、君を失ったが故に私は気が触れた阿呆のような扱いを受け続けている。何もかも私が悪い、ああ知っているさ!だがそれを赤の他人に逆撫でされる筋合は無いと私は考える!何様だ!私達の愛の結晶を穢すな!」
 最早収容された時とは別人である。宗次は鉄格子を蹴り返して陽に引けを取らない声量で怒鳴り返す。
「だったらあの夜何があったか吐け!暗号0831の手紙、読んだぞ。青海の感情に嘘が無いなら、お前は英雄と呼ばれても良い筈だ。何故隠す必要があるんだ、手前が一人ここに閉じ込められていつか死刑になれば青海は満足すんのか、えぇ?情けねぇクソったれが!愛だの恋人失っただの綺麗事並べてる暇があんならちったぁ腹割ってみろ!切腹でもするか?死人は喋れねぇから殺人鬼が一人消えて世間様はほっとするだろうよ。だがそれで青海は満足すんのか!青海に対する愛がまたお前の中にあるなら、ちったぁ応えてみろ糞餓鬼!」

 秀太は独房から辛うじて見えない場所で看守長と共に二人の様子をじっと観察していた。斬り合いのような口論だ。羅刹の鬼対獰猛な獣。陽の一人称はぶれ始め、いよいよ情緒の不安定さは極致まで到達したようだ。
「凄まじいね、あれが鬼の宗次か。」
 看守長が生唾を飲み込んで呟く。秀太も、初めて会った時に宗次から怒鳴られはしたが、それの比では無い迫力に、冷や汗を垂らすのみで言葉を返すことはできなかった。

 陽の怒りは赤を通り越して青となった。赤くめらめらと何もかもを焼く炎が、静かに温度を上げて、淡々と轟々と燃える、焔の大元へ辿り着いたように、真っ赤な眼球で宗次を、そして外野の二人に静かに話し出した。
「あの手紙は九月を迎える前日の朝に私の家の郵便受けに丁寧に折り畳まれて入っていた。読んですぐさま薫の家に向かったんだ。一緒にご飯を食べたかった。二人で食卓を囲んで薫の決意を変えたかった。だがそれは叶わなかった。故に、薫という美しい花を私の手で摘み取ったのだ。それを否定するか、聞こえているんだろう山辺秀太。貴様に言ったな、同じ言葉が吐けるか同じ若人よ。陰から見ていないで、私の前に姿を見せろ。俺を見ろ。これが人間だ。気が触れた人間だ。とうと見るが良い。そして見下せ。」

 看守長に背中を押され、震える足で秀太は陽と対面した。充血しきった眼で睨みつけながら、陽が微笑む。
「俺と対等で良い、と言ったな山辺秀太。秀太はこの姿を見て哀れな気違いと見下すか?それも良かろう。私は今や気が触れた殺人鬼だ。修羅の思いで最愛の人を殺めたのだ。どうだ、対等の立場で話された気分は?あの時の苦しそうに笑う薫の姿は脳に深く深く刻み込まれて消えぬ。未来永劫消さぬ。そしてまた、笑顔が消えた瞬間も絶対に忘れぬ。どうだ、若人よ。これが私の本性だ。満足か?」

 秀太は、目の前にいるのがあの気弱な教師には見えなかった。活きの良い餌を目の前に涎を垂らす飢餓の獣と面と向かって、素直に怖かった。俺も殺される。散々に蹴り飛ばされ続けてなおびくともしない鉄格子さえ、恐怖を払拭するには頼りない。歯がガチガチと震える。

「何を怯えている、対等なのだろう?以前は私と会話をした仲ではないか。何故そんなに怯える必要がある?この鉄格子が私を縛り、貴様の身を守ってくれるではないか。びびってんじゃねぇ小僧!あの時見下すように言った言葉を、もう一度言ってみろ!ほら、さぁ、早く言え!」

 秀太は余りの恐怖に失禁するかと思ったほどであった。だが、同じ言葉を震えながら紡ぎ出した。前回とは、違う意味を込めて。
「やっぱり、青海は報われない。」
 陽はまたも鉄格子を蹴り飛ばし、高笑いをして秀太に蔑みの怒号をぶつける。
「そうだ、それで良い。貴様等偽善に酔う者共には、我等の愛の結晶は理解することなど不可能だ。だからそんな簡単に私と亡き薫を見下すことができる。違うか?違うならばそれを示せ老いぼれと、私と同年代の小僧!」
 秀太の中に、微かに何かを変える炎が燃え出した。陽の言葉は酸素となって燃料を追加する。燃え始めた炎は秀太の中にあった恐怖をも喰らって大きな焔となった。秀太はポケットから、綺麗に折り畳んだ紙を二枚取り出した。

「一枚は、搬送された青海の、最後が書かれたものだ。そしてもう一枚は、ずっと黙秘していた青海家が陽に書いた手紙だ。これを格子の隙間から投げつけて読ませるのは簡単だ。だけと、今の陽にその資格は無いと俺は思う。八月三十一日の、青海薫の家で何があったか、真実を話してくれ。青海とその家族は、真実を白日の下に晒してくれた。陽だけが、日陰で太陽を浴びることを恐れて逃げている。頼む。俺は青海薫だけじゃなく、藤瀬陽も救いたいんだ。打首獄門の磔になる奴は、要らない。」

 陽は胸の中で轟く炎が、秀太の言葉で徐々に鎮む感覚を確かに覚えた。薫の御両親が、口を開いた。陽の脳裏に、鉄格子に寄りかかってサンドウィッチを頬張る同い年の男が走馬灯の一瞬として浮かび上がり、炎は涙となって流れ落ちた。
 薫の御両親が口を開いたということは、陽が隠すまでも無くあの晩の出来事が知られてしまったということを意味する。込み上げ続ける涙は、果たして何を意味するのか。縛られ続けたものから解放された快楽か、或いはあの事実が知れ渡ったが故の贖罪か。

「少し、時間を下さい。私の心を整備する時間を頂きたいのです。時が来たら、私からあの晩の真実を伝えます。」

 宗次、秀太、そして看守長の前で、陽は真っ赤な眼から様々な感情を雫に溶かして流し続け、全てを吐露する覚悟を決めた。

Next…


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