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ほろ酔いゲシュタルト 06

Before…

【六】

 むしむしする熱帯夜。日付を跨いだその時、「チリリン」と鈴の音が響いた。開かれた扉の向こうには、綺麗だったであろうスーツを着崩した若い男が立っていた。
「こんばんは、いらっしゃい。どうぞ中へ。」
「あざっす、水貰っていいっすか?」
「分かりました、すぐお持ちしますね。」
 アヤが冷えた水を汲みに行った。男の首には黝い痣が、まるで飼い犬を逃がさないように付けておく首輪のように、くっきりと残っていた。

 テーブルに招き、五人、いや正確には三人と二匹が座布団に座り、話を進める準備が整った。
「なんかさーせん、もてなしてもらっちゃって。俺死んだんすよね。分かってます。ここがあの世ってやつっすか?随分落ち着いてますね。もっとひでぇとこだと思ってましたよ。」
 水をごくごく飲みながら、取り乱す様子も無く淡々と男は言う。
「正確にはまだあの世ではありませんよ。俺たちは何て言うんでしょうね、無念の晴らし屋とでも言っておきましょうか。お客さん、死んだって言ってましたけど、やり残したことって心当たりあります?」
 あー、と言いながら男は語る。不思議なのは男の冷静さよりも身内の二匹の方だ。コン介はどことなくしっぽが寂しげで、対照的に蜷局はしっぽを大振りして続く言葉を待っている。
「俺ね、ついさっき首吊ったんす。もーいいやって思っちゃって。んで宙ぶらりんになったらさ、意識飛ぶ直前に女が浮かんだんですよ。」
「お兄さん、もしかしてホストの方ですか?」
 アヤが口を挟んだ。珍しい。
「あら、ねーちゃんよく分かったね。もしかして通ってる?だったらやめときな。夢しか見らんないよ。見たけりゃ止めねぇけどさ。」
「いえ、なんていうかその、ホストっぽい友達いるので…。すみません、続けて下さい。」
「そっか。んでさ、その女ね、俺にすっげー貢いでくれてたんだ。店でも上位入れてさ。誕生月なんてナンバーワンだったんすよ。すごくねぇっすか?だけどそれで調子こいて首括るなんて、笑っちまいますよね。ねーちゃん、水お替り。ここの水美味いわ。」
 はーい、とアヤが水を再び汲みに行く。
「それで小僧、女に惚れられるなんて幸せな目ェ遭っておいて首吊りたァ。このアマタは女とは無縁のまま死んでいッたぞォ。かかッ。」
「なんかすんません、おにーさん。俺ナンバーワンなって調子乗って独立したんすよ。したら俺と一緒に店掲げた奴らに裏切られてハメられて。裏っ引き、お客さんから直接金貰うのウチらの業界絶対ダメなのね、それやったバカが俺のせいにしやがって店乗っ取られて。やけっぱちで酔っ払ってそのまま死にましたよ。ははっ、あの子に夢見せて貰えたのに、あの子の夢裏切って。ホスト失格だわやっぱ。」
 水を用意しながら聞き耳を立てていたようで、駆け足で水を持ってきたアヤが男に熱く語った。
「だったら、せめてその女の人にちゃんと言わなきゃ!残される方は辛いんだよ!ほら早く飲んで、こっちこっち!」
 急かされ慌てて水を一気に飲んだ男はそのままアヤに引っ張られて、奥の箱を開いた。カジュアルな私服とジーンズ、そしてジンジャーエールが入っている。
「…そーゆーことか。俺の服だこれ。いつかホストじゃなく一人の男としてあの子と過ごしたかったんだ。行ってきます。ありがと、ねーちゃん。」

 着替えた男が開いた扉の先は煌びやかな店内だった。高く積まれたグラスに酒が注がれ、盛り上げる店員たちのコールが響く。だが、隅の席には楽しくもなんともなさそうな女性がいる。男はまっすぐそこへ向かっていった。店員がざわついている。驚く女性。
「一人で飲んだってつまんねーっしょ、ここはホストクラブだぜ。酒飲まねぇならグラス貸して。これ飲んで帰んな、んでもっといい夢見なよ。俺はあんたのお陰でいい夢見れたぜ。ありがとな。いつかどっかで会ったら声掛けてよ。」
 泣きながら注がれたジンジャーエールを飲み干した女性は、そのまま走って店を出ていった。それを見送って、こちらに目配せをして男が戻ってこようとした時、その肩を掴んだ連中がいた。店員の数名だ。絢爛なスーツの男の中にひとりカジュアルな服装では、非常によく目立ってしまったので気付かれてしまったのだろう。
「おめぇまだいたのかよ?ちっと裏来いや。」
 男はこちらへ軽く手を振ってされるがまま連れていかれた。そして戸は閉じられた。

「行こう。このままだとまずいよ。あのホストのにーさん、まだ絶対なんかある。ほっといたらだめだ。」
 ずっと口を閉ざしていたコン介が、扉が閉まった後の静寂を破った。普段からちょくちょく舌打ちをする蜷局が、一番の舌打ちを鳴らす。
「九尾よ、お主はどッちを取る?迷える魂の望みを叶えるか?或いは無念を抱えさせたまま堕とすのか、えェ?娘と過ごして鈍ッたんじャねェかい?」
 一瞬言葉を詰まらせたが、細い目をキッと開いて蜷局に言葉を返す。
「蛇、お前こそここ最近大人しくしてたからほっといたけどさ。元々なんで僕たちに混ざれなかったか思い出してみろよ。丸焼きにするぞ。」

 俺が先頭を切って扉を開くと、雑居ビルの路地裏だった。男が望んだあのカジュアルな服はぼろぼろになり、綺麗なスーツを纏う男三人に袋叩きにされていた。
「てめぇ一回てっぺん獲ったくれぇで調子ん乗ってんじゃねぇよ!裏っ引きなんてカスみたいな真似しやがって!」
 死んでもなお血だらけの男は、笑いながら連中に言い返している。
「あの新入りのクソガキ引っ張れよ。俺ぁもう死んでんだわ、何発殴られようが蹴られようが痛くもなんともねぇよ。客帰っちまうぞ?ホストの仕事は野郎ぶん殴ることじゃなくてよ、女に夢見せることだろ?」
 一人が酒瓶で男の頭をぶん殴り、瓶が砕け散った。
「この野郎、お前推してた奴帰しといてよく言うぜ!あのバカなアマ一人からいくら引っ張ってんだかお前が一番知ってんだろボケ!店の売上下がっちまうだろうが、今すぐ呼んで来い!」

 思わず駆け出して止めに入った。もういいだろう、と。こいつはもう死んだんだ、と。そう言って無念を晴らした男を送ってやりたかった。だが、間に割って入ったその時、背中にある感触を覚えた。腹から先端を覗かせたその正体は長い刃物だった。冷ややかなそれが引き抜かれる度に、貫かれた穴から凄まじい熱量と激痛が溢れ出る。
 スーツの男たちは怯えて逃げていった。後悔を抱えた男は一心不乱に俺の背を刺し続けた。身体に穴が十と幾つ開いたであろう時、金属を落とす音がした。その音に続いて俺の身体も倒れた。耳元であの男の声がする。
「アマタさん、謝って済むことじゃないけどごめんなさい。血で目見えなくて、夢中だったんです。俺の後悔、一個じゃなかったみたいっす、あいつらぶっ殺してやりたいって思ってましたから。やっぱ女騙して金儲けするような奴は天国行けないっすね。あの女の子に会わせてくれてありがとう。しっかり償って、改めて詫び入れに来ます。」
 辛うじて残っていた力で首を横に向けると、蜷局が自分の尾を咥えて大きな輪を作り、男がその輪の中へと歩いて行くところだった。男が蜷局の輪に踏み入れた刹那、まるでそこには最初から誰も、何もなかったかのように、男の姿は消えてしまった。

「全く、仕方の無い奴じャ。九尾、貴様も化けられるのじャろ?力を貸してくれんか。この間妖力を使い過ぎてな、アマタを早く治してやるには悪ィが力不足よ。」
「まぁこないだはアヤのためにやってくれたんだし、今回は手伝うよ。」
 人の姿に化けた妖二人に抱えられ、事務所の布団に寝かされた。
「アマタ、痛かったでしょ?普通の刃物ならなんてことないんだけどね。あのナイフはあのにーさんが望んだものだったから、この世のものじゃなかったんだよ。後悔っていう重い気持ちもあったから尚更だね。もっと早く気付いてれば。ごめんね。」
 男が来訪した時と同じように、しゅんとするコン介。
「いいんだよ。俺も勢いで飛び出しちゃっただけだし、すっげぇ痛いけどあの階段よりはマシさ。蜷局、お前は気付いてたな?」
「しャしャ、左様よ。我輩はずッと悩んでおッた。あの男の服の中に刃物が入ッていたことなぞ、箱を開く前から分かッてたわィ。悩みの種は、あの男にとッて救いとは何か、じャ。女を夢から覚まし、無惨で理不尽な仕打ちを受けたあいつは天国へと迎えられた。然しあの刃物を憎き相手に向ければ忽ちその権利は奪われる。無念をひとつ抱えて昇天するか、無念を残さず堕落するか。正解なんてねェのだよ。」

 痛む身体をアヤが手当てしてくれた。
「ごめんね、でもかっこよかったよアマタさん。私は何にもできなかった。どうすればいいかも分かんなくて、ただ見てるだけだったもん。コン介が用意してくれた包帯だからすぐに良くなるよ。何かあったら私たちがやるから。しばらくは安静にしててね。」
 礼を言って、再び布団に身体を預けた。血みどろだった布団はいつの間にか新しくなっている。
 蜷局の言葉を反芻する。後悔をひとつ残して天国へと旅立ったら、あの男は報われたと思うのだろうか。だが、後悔を捨て去って地獄を選んだ時の、罰を受け入れる覚悟を持った清々しいあの表情は…。

「かかッ、悩め悩め。折角取り戻した脳味噌じャ。大いに考えよ。だがアマタ、我輩にも誤算があッた。それはなァ、アマタの勇敢さじャ。あの理不尽に耐えられなかッたのは貴様じャ。深い傷をまた負わせてすまなんだ。立派じャッたよ、我が名付け親。我輩も、己が中に未だ燃えるこの何とやらをどうにかせねばなァ。」

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