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群衆哀歌 12

Before…

【二十】

 思い出したくない、忘れてしまい記憶ほど、脳味噌にへばりついて離れない。「忘れたくない」思い出は、月日と共に風化し、ふとした時に「そんなことあったな」と風化する直前の姿をちらりと見せ、また風化を進める。
 それに対して「忘れたい」という出来事は、言葉とは裏腹に「忘れない」へと変貌してしまう。そうして、それは根を張り薄汚い花を咲かせ、そして嫌悪に苛まれる。そして、「早く忘れたい」へと戻り、堂々巡り。人間の脳細胞の構造とは、或いは精神的な構造とは複雑なものである。信号通り動かず、信号とは真逆の行動を取ってみせること多々。
 右クリックで「このデータを消去」を選択できればとても楽なのだろうが、生憎人間は機械ではない。心を持ち合わせている。論理的に考えればそう動くべきではないと分かっていても、心はその選択を取らないケースもある。これだから人生とは難しい。

 そんな思考を微かに巡らせながら、冬は過ぎ、軈て春を迎える。

【二十一】

 約二ヶ月。字面で見ると長い月日に見えるが、案外あっという間に過ぎ去ってしまうものだ。光陰矢の如し、とはよく言ったものだ。
 大学ともなれば、編入生が一人や二人現れたところで、中学校のように「今日から一緒に過ごす誰々さんです」なんて挨拶はない。成人している人間なのだから、やるべきことを自己判断で行え、ということなのだろう。

 この学部では必修の講義のガイダンスを受けていた時、春の姿を見た時にそんなことをふと思った。山本も一緒だ。やっぱりあいつ優しいな。頼まれた通り見てやってくれてんだな。
 二年終盤まで、誰も寄り付かなくなった青髪の席周辺は、少しずつ賑やかになっていった。前に春と山本が陣取った。
 ガイダンスが終わり、次の講義は自習室として開放された。とは言っても、春先一番から教室に残って自習する者など極少数で、大半は群れが一塊ずつテリトリーを作っては、お喋り場になるのが常だった。

 去年は、さっさと教室を離れて煙草を吸いに行っていたが、今年は違った。俺にも、お喋りする相手がいた。
「今日から同じ学部。よろしくな変人。」
「お互い様だろ。よろしくな。」
 春と握手を交わす。そして、山本に声を掛けた。
「去年から色々悪かった。本当に申し訳ないって今は思ってる。またちょいちょい、話し相手んでもなってくれないか。」
 心優しい元友人は、「元」という言葉をあっさり取っ払ってくれた。
「春や哀勝から色々聞いたよ。何気にいい奴やってんじゃん、流石喜一。こちらこそ、今後ともよろしく頼むぜ。」
 この時、よそよそしい苗字呼びから、初めて名前で呼ばれた。そして、山本と喜一も固い握手を交わした。

 そのやり取りの最中、青髪の席に一人で座る女がいた。ちらりと視野に入ったが、奇人の真後ろを陣取れるような変わり者は一人しか知らない。
「おはよ、ご無沙汰。」
「おす、お久しゅう。あれから元気してたかい?」
「泣いたり笑ったり。でも、何か吹っ切れたよ、ありがと。何か気付かないの?」
 山本と春の方を見ると、大袈裟ではないが驚愕の表情。
「春、哀勝と会ったことあったっけ?」
「春休みに飲み行った時に一緒にいて、そこで仲良くなれたんだ。今日の髪型、どうした……?」
 髪型…。哀勝を見ると、冬まではウィッグで隠していた、金銀に染まった髪を隠していなかった。どちらかというとこっちの髪型で共にした時間の方が長くて気にしていなかった。
「あっ、金銀モード。」
「だからその変な呼び方何よ。ま、いいけどさ。もうね、隠すのやめたんだ。自分らしく生きたいなって、喜一君見てたら思ったんだよね。バー連れてった後にさ。喜一君も私の恩人だよ。恩人同士、これからもよろしくやっていきましょう。」
「そういやそんなこと言ったっけ。ガラ掃除、ほんと感謝してんだぜ。今後とも、よろしく。」
 差し伸べた手を、か弱く、けれど力強く握り返してくれた温かい手。一年間孤独を貫いた染谷喜一に、少数精鋭の友人が生まれた。
「喜一、哀勝のこの髪知ってたのか。それよか、何で泣いてんの?」
 春がおどけているんだか心配してんだか分からないトーンで声を掛けてくる。自分でも、頬を伝う生温かい液体が何故零れ落ちるのか分からず、ただ戸惑っていた。
「おい喜一、マジ大丈夫か?なんか温けぇもん買ってこようか?」
 心配する山本の言葉に甘えて、嗚咽でろくに話せなかったが辛うじてコーンスープをお願いした。

 止まることを知らない涙。春は不思議な表情、戻ってきた山本は心配そうな表情。そして、哀勝は純真な微笑みを浮かべていた。
「ほれ、いつぞやの缶珈琲の礼だ。飲んで落ち着けって。」
 コーンスープの温もりが余計に涙を流させる。何故、何故。自分でも理解できないのに、こんな講義室の片隅で延々と涙を流し続ける。
「おい喜一、なんかあるなら今晩でも付き合うぞ。あすこ飲みいこうさ。」
 春の提案に、哀勝が乗っかった。
「私も行くよ。でもね、私何となく分かるんだ。心の中、寒かったんだよね。それがさ、温かい人達に触れて、でっかい氷が少しずつ溶けてる感じなんだよね。私も味わったことあるからさ。よしよし、今晩は四人で飲もう。お姉さんがご馳走してあげよう。」

 哀勝に頭を撫でられながら、軽く頷く。最早話すこともままならないほどだったが、実は哀勝の言葉通りだったことが自分でもよく分かった。心の中にあった巨大な氷が、少しずつ溶ける感覚という例えはとても分かり易い。溶けた氷によって、長い間ボロボロになっても耐え貯め続けていた涙腺の堤防はあっさりと決壊し、涙となって流れ落ちる。

 コーンスープを飲み干し、漸く涙は流れ切った。山本に深々と頭を下げ、夜の約束を結んだ。
「相変わらず律儀な。俺そこ行ったことないから二人に案内してもらうよ。夜また会おうな。何かあったら連絡してこいよ、春から連絡先聞いといていいか?」
「おう、大丈夫。何かごめんな。気持ちコントロールできなくて。でも、哀勝の例えみたいな感じだったんだ。本当に、三人には感謝する。今晩、よろしくな。」
「今度は潰れねぇからな、楽しみだよ。」
 春もいつもの表情に戻っている。奇人に声を掛けた変人は、今や友人。
「私も次は一杯目そこで飲むから。よしよし、いい顔に戻って何より。」
 哀勝はまた頭を撫でる。「よせよっ」と言ってはみるものの、本気で止めて欲しい訳ではなく、正直今だけは年上の姉御に甘えていたかった。

 夜の集合を決めた四人は、それぞれのすべきことへ向かって解散した。再会は、今夜九時。

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