高度1億メートル 02
Before…
【四】
声が聞こえた。確かにイロドリを呼ぶ声が聞こえた。声の主は、きっとイロドリの姉であろう。しかし見渡す限り、漆黒の世界にキラキラ光る物体しか見当たらない。
「上だよ、上。あら珍しいね。お客さんだ。」
声に従って首を上に向けた。するとさらに信じられないものが目に映った。
そう遠くない場所に誰かがいる。その誰かはこの広大な黒き世界に寝転がっていた。と言うか浮いていた。
「姉ちゃん悪い、変なの連れてくるのに少し遅くなっちゃったんだよ。」
脳裏に(誰が変なのだよ)と浮かんだが言葉に出せない。口元が緊張して言葉が出ないのだ。全てが未知の体験であった。
「とりあえず上がっておいでよ。歓迎しよう。」
うぃ、とイロドリは軽い相槌をして、何もない場所を登り始めた。そこに階段でもあるかのように。
「来ねぇんすか?」
「いや行きたいけどさ、どうなってんだよ…。」
「ここまで来れれば簡単っすよ。イメージするだけ。ここに階段か何かがあって、上に行こうって思ってみてください。」
言われるがまま、とりあえずあの場所までの階段をイメージし、一歩を踏み出した。するとそこに段差があるかのように、少しだけ高いところに足の裏が着地した。それを繰り返し、イロドリの「姉ちゃん」と対面した。
不思議な光景だ。黒と銀の世界にパソコンがある。電源コードも何も見当たらないのに、そのパソコンは当たり前のように動いていて、液晶には凄まじい桁の数字と折れ線グラフが表示されている。
「こんにちは、こんばんは?おはよう??」
「何でもいーよ姉ちゃん。これ、頼まれてたやつ。」
「どーもぉ。はい、お使い料。」
彼女は宙に浮くマウスをクリックした。パソコンが唸り声を一つあげ、おそらくCDか何かを入れるであろう部分からなんと一万円札が出てきた。
「別に買い物ぐらいでこんなに出さなくていいのに。無駄遣いしないよーに取っとくよ。」
「イロドリ、偉い。そっちは順調かい?」
「ぼちぼち。」
俺をそっちのけで、ありふれた日常的な会話が非日常の極地で続いている。何が起きているか、俺には依然として理解が追い付かなかった。
「イロドリ、いつもありがとん。お客さん待たせちゃってるから、もうゆっくりしてていーよ。」
「んじゃお兄さん、あとはごゆっくり。」
「え、降りるの?」
「たまには僕以外の人と喋った方がいーよ。僕は戻るから。」
イロドリはひょいっと飛ぶと、そのまま黒銀の彼方へ落ちていった。
「お客さん、いらっしゃい。初めまして。」
寝転がったまま、首だけをぺこりと下げられた。同じように会釈してはみたが、どんなに頭を使ってもこの状況に説明がつかない。
「これ、夢…?」
ありきたりな台詞だったが、答えは一瞬で出てしまった。
「そだよん。ゆっくりのんびりしていってね。これ、あげる。」
イロドリから差し出された袋の中からシュークリームを一つ取り出し、俺に向ける。ゆっくり近づいていき、それを手に取った。落ちたらどうなるか怖かったが、杞憂に終わった。
何度か食べたことがある、コンビニのシュークリーム。食べてみたが、知っている味である。夢ではなく現実の世界で食べたものと同じ味。
シュークリームをゆっくりと食べながら、「姉ちゃん」を観察する。銀色の髪、だぼだぼのスウェット姿、そして弟・イロドリと同じような、気怠そうな垂れ目の瞳。その瞳の奥には星が輝いているようだった。スウェットが大きすぎるせいか、袖から手は出ていない。「萌え袖」というやつだ。
「お兄さん、名前は?」
「ヒイラギ。姉ちゃんは?」
「セイラ。イロドリ以外でここに来れた人、初めて。よろしくね。」
「よろしくっす…。」
シュークリームを食べ終えると、いつからあったか分からないが足元にゴミ箱があった。そこに袋を捨てると、一瞬の間にセイラと名乗る女の子の手元に移動していた。
「とりあえず座りなよ。あ、寝っ転がってもいいよ。寝心地いいよ。」
横になるのは何となく怖かったので、おそるおそる座ってみた。体が宙に浮く形で座れた。何もないのに、とても柔らかいクッションに腰掛けたような心地良さを感じる。
「ヒイラギ、何歳?」
「二十二。」
「じゃわたしの二つ上だ。イロドリは双子の弟でね、行きたいところに連れて行ってあげる代わりにお使い頼んでるの。イロドリのこともよろしくね、ヒイラギ。」
「うん…。とりあえずさ、ここの説明してもらってもいい?なんかもう、混乱しすぎてカオスなんだけど…。」
セイラはうんしょっと、と言って起き上がり、立膝のままよちよちと俺の隣に来て、俺に寄り掛かった。
「ちょ、初対面の男にさ、こんなことする!?」
「テンパってる、可愛いねヒイラギ。ここの説明するのはめんどい。居心地のいい夢の世界だよ。見たことあるでしょ、寝てる時に。ここは、それと同じってだけ考えてくれればいいの。」
「でも俺、コンビニいたんだよ?寝てないよ?」
「今までイロドリから聞いてたけど、イロドリに絡んでここに来ようとした人はちょいちょいいたんだ。でも来れた人はだーれもいなかった。ヒイラギは来れた。悩んでるの?」
返す言葉も無かった。図星である。ここは夢の世界だとセイラは言うが、ならば現実の俺はどこに…?考えても仕方が無い。セイラに言われるまま、俺のありのままを話した。一切合切全てを打ち明けた。
今にもとろけそうな瞳で、俺の目をしっかりと見つめる。話し終えた頃には頬が熱を帯びていた。
「そっかぁ、ヒイラギ大変だね。ここには帰りたくなるまでいられるからさぁ、のーんびりしてってよ。わたしもイロドリ以外と話すのなんて久しぶりだしさぁ。そうだ、お散歩しよーよ。」
セイラが袖越しにマウスをカチカチとダブルクリックすると、パソコンの電源が切れた。そして立ち上がり、俺に手を差し伸べた。スウェットの袖から手は出せていなかったが。
流れに全てを任せ、袖越しにセイラの手を握った。そして歩き出した。
一面に広がる黒に銀色の粒。その隙間を縫うように歩き続けた。セイラは手を大きく振りながら、スキップでも始めそうな足取りで楽しそうに歩いている。何時間も二人で歩いている気がするが、いくら歩いても疲れない。逆に歩を進めるごとに、底知れぬ安堵に心を解されていく。ふと見上げると、手を伸ばせば届くんじゃないかってくらいの高さに綺麗な三日月がある。
「わぁ、お月様だ。可愛い。おやつ食べよ。」
セイラは手ぶらで来ていたはずなのに、さっきイロドリが買ってきた袋が現れた。
「ここにベンチがある。そう思って座ってみて。」
手を引かれ、セイラは腰掛けられた。しかし俺はイメージする間も無かったので、尻からひっくり返ってしまった。
「あはは、ヒイラギも可愛いね。」
照れながら、改めてベンチを想像して座ってみる。今度はちゃんと座ることができた。
「これ、ひとつどうぞ。お月見にはお団子だよ。」
餡子の乗った串団子を一本もらった。一緒に食べた。ヒイラギは袖越しに、俺の手の上に手を置いている。
「こんな近くに月があるって、宇宙みたいだな。」
「お、正解!ここはね、宇宙なんだよ。」
リアクションを返す間もなく、セイラはのんびりと言葉を続ける。
「ここはね、高度1億メートル。大空と宇宙の境目なんだ。」
Next…
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