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歪んでも、なおそれを愛と呼ぶ 12

Before…


【十六】

 どこから綴れば最善か分からないので、沢山の時間を頂いて私の生い立ちから語らせて下さい。

 私は教師の父と塾講師の母の元に生まれました。私が産まれた一年後に、弟が生を授かって産まれました。家族仲も、兄弟仲も、私と弟が「学校」という環境に飛び込むまでは、とても幸せなものだったと記憶しています。

 学校という環境は、個々の持つ力が如実に数値となって評価されます。私は、決して勉強が不得意ではありませんでした。カラープリントのテストはほぼ満点に近い数字でした。弟が入学した時は、私達兄弟が家以外の同じ環境で過ごせると喜んだものです。

 私達兄弟が高学年という括りに入った頃からです。私はどうしても満点に辿り着くことが苦しくなったのです。時間の限り自分の回答を見直しても、間違っていると思う部分は無く、今回こそ完璧だ、と思って提出した答案に三桁の赤文字が書かれて返ってくることは滅多に無くなりました。しかも、よくよく考えればすぐに分かるような部分を見落とし、あと一歩で満点というところで零れ落ちたのです。

 その頃、弟は学習の要領を完全に掴み、常に満点を取って帰ってくるようになりました。その頃からは徐々に兄弟の口数も減っていったような気がします。私が遠ざけていたのでしょう、きっと。

 両親は弟を溺愛するようになっていきました。私は家に帰ってからも必死に勉強しました。弟はゲーム等の遊戯に興味を示さなかったので、十歳になる頃から既に詩集や小難しい小説を読んでいました。それがまた、私の完璧な理想像でした。それ故、弟に近寄り難くなりました。何故私がこんなにも必死に鉛筆を握って学習しているのに、弟は本に耽るだけで点数を取れるのか、と。

 私も弟を真似て文豪の作品に手を伸ばしたこともあります。しかし私にはその良さが分からず、両親からは本を読むより問題を解け、と叱られてしまいました。
 小学校の卒業が近付いてきた時には、両親の口癖は「何でお前はいつも間違いを見落とすのだ、あいつを見習え」といった旨のものばかりでした。私は弟の下位互換でした。歳が一桁の頃の兄として弟を守っていた影は微塵も残りませんでした。弟が家族の栄光であり、その光に焼かれ惨めな思いをしているのが私だった感覚です。

 決定打は弟が中学校に入学した時でした。弟は県内屈指の高校附属中学校の試験を余裕で突破して、私とは違う進路を進んだのです。両親に敬意をもって接していた私も、流石にこの一件は激怒しました。私が知らないところで、私の劣等感を全開にするような真似をされて、心の臓が煮え滾って激情を吐露しました。対する返事は冷淡で現実的でした。

「お前では点数が足りない。確実に合格できると思えなかっただけだ。」

 弟の進学に合わせて、両親と弟はその学区に新築の一戸建てを購入して引っ越しました。私は転校することが嫌で、駄々をこね続けて転校を免れました。母方の祖父母が元々の家に来て、比較から逃れた生活を送りました。祖父母は私を認めてくれました。それが温かくて居心地が良かったのです。

 中学校卒業後は県内で上の中くらいの高校に合格し、猛勉強しながら高校生の時間を過ごしました。根が暗いもので、中学から友達は息抜きに読む本でした。高校でもそれは変わらず、交友関係は希薄極まりないものでした。それでもひたすらに読書と勉強に励む姿を祖父母はこれでもかという程に褒めてくれました。それに至福の喜びを感じ、その喜びを糧にしていたのは確かです。

 高校三年、進路を本格的に考えなくてはならない時に大きな変化は起きました。祖母が息を引き取ってしまったのです。枯れ果てる程に泣きました、泣きましたとも。数年ぶりに顔を合わせた両親と弟は、血の繋がりを全く感じさせない、赤の他人のようでした。祖父は施設に入ることが決定し、その間は週毎に父と母が交互に旧宅へ来て私の面倒を見ました。とても面倒臭そうに、面倒を見てくれたのでした。

 高校卒業後、全寮制の大学に入学しました。純粋に、あの両親や弟と暮らすことは私には耐え難い苦痛だったからです。両親も珍しく安堵の表情を見せました。旧宅はすぐに買い手が見つかって売却され、寮内で自己研鑽に没頭する四年間でした。

 学部上、奇しくも父親と同じ教師を目指すより他にありませんでした。講義も実習も糞真面目に取り組み続け、友人は相変わらず本と参考書、そして講義で配布されたレジュメでした。自己研鑽の効果は点数として戻ってきました。成績は上位。頂点を取った年もありました。

 唯一苦手だった活動は、班活動を筆頭とする団体・集団活動でした。こればかりは協調性を求められるもので、協調と無縁の学生生活を送り続けた私には辛いことこの上ありませんでした。

 これが仇となり、受けた教員採用試験は全滅し、卒業後社会に出るにあたってあの悍ましい両親と弟のいる、私の知らない藤瀬宅へ行くことを余儀無くされました。あの時の三人の、深い溜息と蔑むような眼は残酷な記憶として今も残っています。最早勘当と言える形で二百万円を頂戴しました。それを元手にして地方で講師登録を済ませ、物件を決め、孤独を背負って社会に出たのです。

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