通学路、小学生の君と出会う

実家のある町に真新しいものは何もない。見慣れたファミリーレストランに、がらんとしたCDショップ、少しさびれたホームセンターがあるくらいだ。あの日の私は、それでもどこかへ歩きたかった。いつまでも見つからない何かを探して、無意味な時間を感じたくなった。身体が何となく進み始めたのは、かつての通学路だった。いつかの感覚だけを頼りにして、今日はそのまま歩いてみることにする。

あれもこれもすぐに忘れてしまう私でも、6年間、毎日のように通った道は身体に染み付いているらしい。あそこにはゆかちゃんが住んでいたよな、と思い出してすぐ、果たして今はどこにいるのだろうとすぐに不在を感じ取る。私が見慣れたマンションやアパートに、子どもたちはもういない。そんな静かな家の前を通り過ぎながら、私の知っているあの子が現れることのない道を進んでいく。

見通しのよい畑が広がっていたはずの場所に、見るからに新しい家が何軒も立ち並んでいた。綺麗な家の前でしゃがんでいる、小さな女の子と目が合う。私たちが子どもではなくなっていく過程で新しい家族がここへ移り住み、また別の子どもたちがこの町で時間を重ねていこうとしているようだ。ピカピカな家と家のあいだにある道路に描かれた、懐かしい白いチョーク跡のちぐはぐさに嬉しくなる。ケンケンパをして遊ぶ小さな男の子と、20年前の私はまるで同じように見えた。君も、この通学路を今歩いているのだろうか。少し褪せた見慣れた家たちの壁を超えて、廻っていく時間もあるのだと知る。それは悪くないな、と思った。

小学生の頃に何度も通った駄菓子屋さんは姿を消し、綺麗な白い色で塗られた家になっていた。知らない誰かが暮らしているであろう家をまっすぐに見つめながら、そこにあったはずの駄菓子屋さんを視線の先に重ねてみる。入って右側の縁に腰を掛けるおばあさんと、その奥の畳で寝転ぶおじいさんと、角にたくさんぶらさがっているブロマイド、それから左のほうにどんと置いてあるきなこ棒の箱。いま目の前にないものを、私は簡単に思い出すことができる。私にとって、そこにある新しい白い家のほうが幻で、記憶の中にある駄菓子屋さんのほうが現実であることは、確かだった。

毎年訪れていたお祭りが開かれていた神社だ。毎年お祭りの日だけは道の両側に屋台がずらっと並んでいて、先にある拝殿には永遠に辿りつけないと錯覚するほどの眩しさと喧騒で満ち溢れていたあの夜を思い出す。2021年の初夏、今ここに立っている私から見えるその神社は、少し手を伸ばすだけで簡単に拝殿まで届いてしまいそうな気がした。鳥居をくぐるのはやめた。特別な夏の夜の匂いを追いかけて、先へ進もう。

子どものいなくなった家、新しい家族が移り住んだ町、無くなった駄菓子屋さん、夏の夜の気配が消えた神社。あらゆるものが昔とは違っていたけれど、変わらないものもあった。小学校だ。鉄棒も、うんていも、いつかの私が握りしめていたものがそこにあった。上へと強く蹴り上げたさかのぼりの補助台も、助走をつけて思い切り飛び込んだ砂場も。全部あのときのまま、残っていた。

プールへ続く外通路を通ったとき、私はとっさに、ああプール行きたくないなあ、と思った。今ここにいる私は28歳の私で、そんなことはもう思うわけがないのだけど、でも確実にそう思った。そのとき気付いたのだ。プールに行きたくない私は、あの時も、今も、この外通路にいることを。過ぎ去った時間が今の私になっているのではなくて、全部なくなってなんかなくて、ただずっとここにあったことを。

今を一生懸命に生きていると、ふと忘れてしまう。私は今ここにしか存在しなくて、今の自分が全てであるような気がしてしまう。でもそれは勘違いだ。その時その時に私はいて、あの時と同じように、今この瞬間にも私がいるだけ。ただそれだけだ。今の私は、決して過去の集大成ではない。プールに行きたくない私も、駄菓子屋さんではしゃぐ私も、通学路を歩く私も、いつだってその瞬間に私は生きている。

いつまでも見つからない何かは、通学路を歩いてみてもやっぱり見つからなかった。そのかわりに、校歌を口ずさみながら家に帰ろう。今のところの私は、真新しいものは何もないこの町で、暮らしを続けていくしかなさそうだ。そうだ、帰りにあの見慣れたファミリーレストランでも行こうか。何とも出会わない無意味な時間が、私をきっと満たしてくれるだろう。


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